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新しい命を得て新しい人を着る(2)(第二説教集14章試訳2) #157

原題:An Homily of the Resurrection of our Saviour Jesus Christ, for Easter-Day. (救い主イエスキリストの復活についての説教、イースターのために)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(10分56秒付近から):





復活によって永遠の命への信仰がある

 善きキリスト教徒よ、みなさんはキリストの力強く栄えある復活というこの大いなる素晴らしいみ恵みにかかわり、どのようにキリストが人の罪を贖われ、悪魔や死や地獄を打ち負かされ、み手をもってそれらすべてに勝利を収められたかを知りました。キリストはわたしたちをそのようなものから解放なされました。わたしたちはキリストの復活というみ恵みにより、永遠の命への信仰に至り、キリストと同じように死から起き上がることができるという確かな希望を持っています。尽きぬ命の栄えを持ってキリストの栄えあるからだと一になり、キリストの聖なる魂を心の内に持って、天の国を永遠に相続するという徴と約束を持っています。キリストのご助力があってわたしたちはあらゆる義をもって満たされ、キリストのみ力があってわたしたちはあらゆる悪の誘惑を断ち切って神の喜ばれるところに立てます。このことをよく覚えていましょう。

義を与えられて失ってはならない

これからの生で、わたしたちは復活という極めて実り多い教理について持つ信仰を明らかにし、罪から義や命の聖へと日々向かうときに、この信仰をもって自身を形づくらねばなりません。聖ペトロはこのように書き残しています。「私たちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、その人たちの後の状態は前よりも悪くなります。義の道を知りながら、伝えられた聖なる戒めに背くよりは、その道を知らなかったほうが、彼らにはまだよかったのです。彼らの身に起こっていることは、『犬は自分の吐いたものに戻る』とか『豚は身を洗って、また泥の中を転がる』とかいう、ことわざのとおりです(二ペト・20~22、箴25・11)。」罪を洗い清められていながらまたそこに戻るとは、なんと恥ずべきことでしょうか。義を授けられていながらまたそれを失うとは、なんと愚かなことでしょうか。罪という卑しいかりそめの楽しみに身を委ねて、わたしたちに定められている相続を台無しにするとは、なんと気ちがいじみていることでしょうか。

思慮のない行いをしてはならない

救い主キリストは慈悲をもってわたしたちの側に来られ、客としてわたしたちとともにこの世に生きられました。あらゆる悪と過ちのもとである悪魔の卑しい魂をお引き受けされるほどの、あらゆるみ恵みと美徳を持った方を遠ざけるとは、過ちからその方を遠く彼方に追いやるとは、なんと思慮のないことでしょうか。慈悲をもってわたしたちを呼ばれる方について、ご自身をわたしたちのために犠牲になされた方について、大変な思慮のなさを露呈するに至るのでしょうか。そうです、どうしてわたしたちは、三つにして一つの神でありあらゆる力と知恵と善性を持つ父と子と聖霊の存在を無にするほどに無礼なのでしょうか。どうしてわたしたちは反抗や反逆による危険を恐れないのでしょうか。

目の前にある危険に気付くべし

 善きキリスト教徒の兄弟姉妹たちよ、みなさんがいま置かれている危険をよく考えましょう。貴くもみ恵みによって贖われて与えられたものを愚かにも失うことなく、みなさんに示されている大いなる光を思慮のなさや盲目のゆえに見ないでしまうことのないよう、自身によく言い聞かせるべきです。「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神の武具を身につけなさい(エフェ6・11)。」「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものによらず、傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです(一ペト1・18~19)。」キリストは「この終わりの時にあなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。したがって、あなたがたの信仰と希望とは、神にかかっているのです(同1・20~21)。」空しい望みに従う者は、神に喜ばれず魂を危険にさらしています。信仰によって清められた従順な幼な子のように神がお示しになっている道を歩むことによって、「信仰の目標である魂の救い(一ペト1・9)」を受け取ることができます。「かつて、五体を汚れと不法の奴隷として献げて不法に陥ったように、今は、五体を義の奴隷として献げて聖なる者となりなさい(ロマ6・19)。」みなさんが信仰を持ちキリストが死から生へと復活されたというこの教理を喜べば、聖パウロが言うように、みなさんはキリストの復活に続くことができます。

新しい命を得て新しい人を着る

「私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです(ロマ6・4)。」キリストが父の栄光によって死から復活なされ、わたしたちを新しい命へと向かわせて歩むようにとされることで、わたしたちは純粋な幼な子のように天におられるわたしたちの父を讃える者となります(マタ5・16)。「あなたがたはキリストとともに復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい(コロ3・1)。」「上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません(同3・2)。」みなさんがつい思いを寄せてしまう地上のものとは何であって、上にあるものとは何であるのかを知りたいのなら、『コロサイの信徒への手紙』で聖パウロが次のように語っていることを見るとよいでしょう。「地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。これらのことのために、神の怒りが不従順の子らの上に下るのです。あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました。しかし今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、冒瀆、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いに嘘をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい(同3・5~9)。」

この世にある肉の欲を捨てるべし

 いまお話したのが、聖パウロがみなさんに対して脱ぎ捨てて心を遠ざけるようにとしている地上のものです。このようなものに従っている限りは、みなさんは地上にあるこの世のものとなります。このようなものは地のアダムの果実です。しかし義に生まれるために、そのようなものを求めないように努めていれば、みなさんは日々このようなものをなくしていけます。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい(同3・12~13)。」もしこのような上にある美徳にみなさんがこれからの生の中で従えば、みなさんはキリストとともに生まれることになるのであり、「天におられるあなたがたの父の子(マタ5・45)」となります。与え主である天の父からこのようなみ恵みと賜物が送られます(ヤコ1・17)。このようにしてみなさんは、「国籍が天に(フィリ3・20)」あることになり、そこに希望があるのであって、この世にあって獣のような肉の欲に従うべきではないとわかります。そのときみなさんは自分が清められて生まれ変わったのであり、この世の残りの生において聖と義をもって神に仕え、永遠の命を受けて神とともに統べることになると考えてよいのです(ルカ1・73~75)。みなさんが求めるべきその大いなるみ恵みを受け取らなければ、ますます破滅へと進み、神を怒らせてその喜びを向けられなくなります。聖奠を貶めてあざ笑うことの復讐を受けるほかに、みなさんに何があるのでしょうか。

キリストとともに生きよう

 よき友よ、キリストとともに生きることに自身を献げましょう。キリストはみなさんの中に生きておられ、その愛とご助力をみなさんは持っています。みなさんはすでに自身のなかに永遠の命を持っているのであり、何ものも恐れる必要などありません(ヨハ5・24)。これまでにどのような罪を犯していても、おわかりのとおり、キリストはそれを赦してくださります。ご自身の愛の中にみなさんを受け入れられ、全き確かさをもってみなさんの内に住まわれています。自身の命に感謝し、神の慈悲ある目に適わない「地上の体に属するもの(コロ3・5)」すべてを拒んで避けましょう。みなさんが罪の泉や穴に落ちたその道を再び昇るように努めましょう。自身の舌によって罪を犯したことがあるとしても、その道をまた昇って神に栄えを向けましょう。神に誉れを向けなかったその舌でみ名をほめたたえましょう。みなさんが隣人の名を汚したり、何か悪を為したりしたことがあるとしても、その人の名誉を取り戻すように努めましょう。ただし償いなくしては、神はみなさんの告白も悔い改めも受け入れてはくださりません。ただ悪を捨てるだけで、善を為そうとするほうに自身の心を向けることがないのでは足りません。

罪を讃美と愛に変えよう

みなさんがどのような罪を犯したのであれ、その罪を神への讃美や隣人への愛に変えましょう。確かに罪の力は大きく、そこへの執着は手に負えないものではあります(詩36・2)。わたしたちの持つ本性は、始祖であるアダムから受け継がれている毒が持つ酸味のある苦さをもって熟成して膨らんでいるので、それを抑えたりそれに抵抗したりというのは難しいことです。「しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている(ヨハ16・33)。」聖パウロは「罪があなたがたを支配することはありません。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるからです(ロマ6・14)」と言っています。みなさんの力は小さいとしても、戦いのなかでキリストがみなさんを強くしようとして起き上がられ、キリストの聖なる霊がみなさんの足りなさを補われます(ロマ8・26)。キリストのご慈悲に信頼をおいて、神のみ前でわたしたちの命が持つはずの甘美さを腐らせて苦いものとしている古くからある罪の種をきれいに取り除いて、新しく生き生きとした生地となりましょう(一コリ5・6~7)。神のみ前で甘美なパンとなるために邪悪さの種を取り除き、神に喜ばれるようになりましょう。

イースターの祝いの食事をしよう

 わたしはみなさんに、肉が持つこの世のものへの執着をなくすようにと言いたいのです。イースターの小羊であるキリストは、人の罪の力をなくされ、それによる危うさからわたしたちを救われて、わたしたちの命が持つ罪を消し去るために捧げられます。ユダヤ人はエジプトからの脱出を記念して過越の羊をもって祝いの食事としますが、わたしたちはキリストのみ恵みに感謝してそれを覚えるために、イースターの祝いの食事をしましょう。キリストは父のもとを通っての復活によってみ恵みをもたらされ、それによってわたしたちはあらゆる敵による虜囚や奴隷の境遇から解放されています。わたしたちは古い国籍への執着を捨て、その束縛から逃れ、キリストとともにあるようにしましょう。ユダヤ人は七日にわたって種のあるパンを避けて食事をしますが(出12・15)、キリストの国の民は聖なる日を霊的に祝うこととしましょう。具体的には、物質的に種のあるパンを避けるのではなく、罪という古い種を、つまり悪や邪という種を避けるのです。

まとめと結びの祈り~真のパンを

わたしたちの魂を蝕む古い教えという種を遠ざけましょう。わたしたちのこの世の生すべてにわたって、神のみ心に適った命の純粋さやキリストの教えの持つ真というパンをもって食事としましょう。そうすることでわたしたちは、キリストからの賜物やみ恵みが自分に対して力を持っているということと、自分がキリストの聖なる復活について正しく知って信じているということを明言できます。実に、わたしたちがこの世の生においてキリストの復活への信仰を持ち、その意味するところに従って自身を確かなものとするならば、主イエス・キリストの善性とご慈悲とにより、必ずやこの世の後に復活して永遠の栄光に与ることができます。父と聖霊とともに、主イエス・キリストに、あらゆる栄えと、感謝と、誉れが「世々限りなく」ありますように。アーメン。



今回は第二説教集第14章「新しい命を得て新しい人を着る」の試訳2でした。これで第14章を終わります。次回から第15章に入ります。最後までお読みいただきありがとうございました。

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