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神の力、神の知恵(2)(第二説教集10章2部試訳2) #138

原題:An Information for them which take offence at certain places of the holy Scripture. (聖書の一部に疑いを持つ者たちにかかわる説教)

※第2部の試訳は2回に分けてお届けしています。その2回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(25秒15分付近から):


肉に生きる者は自らの滅びを招く

 それゆえ兄弟たちよ、気を引き締めましょう。みなさんが神の御言葉を嘲る者とならないように用心しましょう。神の怒りを招くことで、さきほどお話した不心得者たちと同じように、この先みなさんの上に罰が降り注がれることのないようにするべきです。自身の魂を故意に殺める者であってはいけません。神が御慈悲をお持ちであるうちに神に向かいましょう。来たる世で悔い改めようとしても、その時ではもう遅すぎます。神は容赦なく裁きを行われます。これらは十分にわたしたちへの警鐘となるものであり、聖書への畏れを持たせるものでもありますが、すべての人々に信仰を持たせるものではありません。これらはすべての人々の心を満足させてその平安を持たせるものとはなっておらず、肉的な者たちはいまだに聖書を肉的に乱用し、大いなる破滅に向かっています。聖ペトロは「無学な人や心の定まらない人は、それをほかの書物と同じように曲解し、自分の滅びを招いています(同3・16)」と言っています。

キリストは神の力、神の知恵である

聖パウロはキリストが「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵である(一コリ1・23~24)」と言っています。信仰に篤いシメオンは「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ(ルカ2・34)」たと言っています。キリスト・イエスは、悪行によって滅びゆく者たちにとっては躓きとなる方です。彼の御言葉は神の御言葉そのものであり、それを信じない者たちには滅びがもたらされます。キリストはともに神の子となる人々のためにのみ立ち上がられます。キリストの御言葉は神の御言葉です。そのすべてが、それを心から信じる人々にのみ救済をもたらす神の御力です。キリストご自身も、それ以前にいた預言者たちも、その後の使徒たちも、すべてが神の聖なる御言葉を、つまり聖書の一言一句を正しく伝える方々であり、悪者に対しては死をしか意味しない方々であるのです。

神から離れると聖書を理解できない

 キリスト・イエスも、預言者たちも、使徒たちも、神の御言葉を真に伝える方々であり、したがって聖書の中で表題ともなっているのですが、今までも今もこれからも、永遠の生にとっての生であり、神が真の信仰によって心を清めてくださるすべての人々にとっての生です。聖書について軽はずみな冗談など言わないように心から気を付けましょう。聖書の言葉が理解するには曖昧ではっきりとしないものであるというならあるほど、ますますわたしたちは神から、またそれを書いた聖霊から遠いところにいると考えなければなりません。聖書をうわべだけで読まず、その奥にある知恵を求め、畏れをもって読み進めましょう。御言葉の意味や奥深さを読み取れないからといって、それを嘲る者や蔑む者となってはいけません。そうなることは躓きの明らかな徴であり、神とその知恵に対する敵となることを示します。たいしたものではなく他愛のない寓話のように見えるとしても、神が厳かに述べられている御言葉であり、極めて大切なものであると受け取らねばなりません。

旧約聖書は新約聖書の影である

旧約聖書の多くの箇所でさまざまの儀礼や儀式や犠牲の奉献があるとしても、それらを奇異なものとみてはならず、それが行われた時代や人々に合わせて考えるべきです。知恵のある人々にとっては、それらは考えてみて不適切なものではなく、新約聖書においてのちに明らかにされる物事や人物たちの前触れや影であると理解されるものです。父祖たちの系譜や血統を読み上げていくことは、まったく無学な人々にとってはあまり興味を引くものではないのですが、そもそも聖書の全体についてむやみに語るものではないとはいえ、その意味を探ろうと努める人々にとっては霊的な目的に適っています。聖書のそのような箇所は非難されるものではありません。わたしたちの聖書への理解や気づきを妨げるものではないからです。わたしたちは、自分の理解力や教養に応じて、聖書を理解して受け取ろうと努力をしなければなりません。

ダビデは神の敵が滅ぶことを望んだ

 わたしたちは『詩編』の多くのところで、神に敵対する者に対し、ダビデがときにどのように恥辱や叱責や混乱を望んだのかを読んで知っています(詩35・4、同83・17)。彼はときにはその子孫が滅びることも、またときには敵が突然にして滅びに至ることをも望んでいます(同68・2)。彼はペリシテ人の隊長たちについて「稲妻を光らせて敵を散らし、矢を放って彼らをかき乱してください(同144・6)」とある種の呪いをもって、祈りを立てています。しかしわたしたちはダビデのこの祈りについて気分を害するべきではありません。彼は預言者であり、神に愛された人であり、神の栄光を求める強い気持ちのあまり熱くなっているからです。彼は誰かに腹を立てて個人的な憎悪について語っているわけではなく、ただ心から、神に敵対するすべての人々のなかに巣食う腐敗した過ちや悪徳が滅びることを望んでいました。彼は主の日に魂が救われるようにと、ヒメナイとアレクサンドロを悪名高い淫行者としてサタンに引き渡したときの聖パウロと同じような心を持っていました(一テモ1・20)。

まとめと結びの祈り~霊に生きる

『詩編』のなかでダビデはあるところでは自身が邪な者を憎んでいると告白し、またあるところでは悪意をもった嫌悪からではなくして、純粋な嫌悪から魂を痛めて、邪な者たちを憎んでいるのだと告白しています(詩139・21~22)。このような魂の純粋さはわたしたちにはありません。この世への愛着であまりに腐敗しているので、わたしたちは個人的な理由でこれと同じような言葉を用いるべきではありません。わたしたちは理解に苦しむことがあってはいけません。理解に苦しむのではなく、肉的な理解においては奇異であっても、魂や心において輝くように信仰深く響く言葉を恭しく受けとることができるように、言葉の道理に思いを致すべきです。神は御慈悲をもって、御子イエス・キリストへの信仰を通してわたしたちの心を清めようとしてくださり、天なる御恵みの雫をわたしたちの頑なな心に落とし、この頑なな心を和らげ、わたしたちを無謬の御言葉に対して反抗する者とはなされません。あらゆる慎みとキリスト教徒の敬虔さをもって、わたしたちは神の聖なる書に耳を傾け、それを読んで、心の内でよくそれを噛みしめ、わたしたちの魂を安らげ、御名を高めましょう。御子と聖霊とともに、三つにして一つの生ける神に、すべての祝福と誉れと讃美とが世々とこしえにありますように。アーメン。



今回は第二説教集第10章第2部「神の力、神の知恵」の試訳2でした。これで第10章を終わります。次回は第11章に入ります。最後までお読みいただきありがとうございました。

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