三にして一なる神(第二説教集16章1部試訳) #163
原題:An Homily concerning the Coming down of the Holy Ghost, and the manifold Gifts of the same, for Whitsunday. (聖霊の降臨とそのあまたの賜物についての説教、聖霊降臨祭のために)
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(15分17秒付近まで):
ペンテコステとは何か~その起源
神の教会に世々変わりなく力を充填する聖霊によるあまたの賜物についてお話する前に、まずもってこのペンテコステと聖霊降臨節の祝祭の始まりについて、みなさんに簡潔にお話しすることが必要です。ペンテコステの祝祭がイースターの五十日後に持たれていることはご存じだと思います。もともとこれはユダヤ人の間でエジプトからの脱出を記念することに加え、シナイ山で律法が発布された日を記念する神聖な祝祭でした。これはそもそも『レビ記』の二十三章(レビ23・16)や『申命記』の十六章(申16・9)にみるように、死すべき人間にではなく神ご自身の口から聖とするように定められ命じられたものです。それに定められた土地がエルサレムであり、そこには世界中の人々が集っていました。『使徒言行録』の第二章にあるように、パルディア、メディア、エラムからの人々や、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリアなどの人々もいて(使2・9~10)、この光景を思えば、わたしたちはその祝祭にどれほど偉大なる荘厳さがあったのかがわかります。ペンテコステは古い律法におけるユダヤ人の祝祭としてあったのですが、救い主キリストもまた福音の時代における律法を確かにし、弟子たちに新しいペンテコステを定められました。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ(同2・3)、」目に見える形で聖霊が降臨し、「誰もが自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて(同2・6)」理解する力が与えられました。教会は永遠に記憶されるべきこの奇跡を善きものとしてこの日を厳粛で聖なる日とし、聖霊降臨日と広く呼ぶようになりました。覚えておくべきであるのは、過越の祭りから五十日の後にシナイ山で古い律法がユダヤ人に与えられたのと同じく、イースターから五十日の後にシオンの山で聖霊の大いなる力を通して使徒たちに福音が宣べ伝えられたということです。
炎のような舌が現れてとどまった
この祝祭はその名をペンテコステと呼ばれていますが、これは日数にちなんでいるものです。『使徒言行録』で聖ルカが言っているとおり「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると(同2・1)、」聖霊が突如として降りてきて、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった(同2・3)」のです。このことは実際にあったことで、使徒たちを含め多くの人々に、聖霊こそが福音を宣べ伝えるための声と雄弁さをもたらすものであるということを明らかにしました。また聖霊こそが神の力強いみ業を明らかにするための口を開かせるものであり、神のみ言葉への燃えるような情熱を生み出すものであることを明らかにしました。イザヤがそうであったように、あらゆる人々に舌を、それも燃えるような舌を授けて、勇敢に喜びをもって全世界の真理を告白させるものであることも明らかにしました。「主なる神は、弟子としての舌を私に与えた。疲れた者を言葉で励ますすべを学べるように(イザ50・4)」とイザヤは言っています。預言者ダビデはこの賜物を求め「わが主よ、私の唇を開いてください。この口はあなたの誉れを告げ知らせます(詩51・17)」と言っています。救い主キリストも福音の中で弟子たちに語られています。「というのは、語るのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊だからである(マタ10・20)。」聖書におけるこれらの証しすべてによって極めて明らかであるのは、聖霊とともにあるすべてのものにおいて、この分かれ分かれに現れた舌が福音を宣べ伝えていることによって、キリスト教徒が信仰を堂々と告白できるようにしているということことです。キリスト教徒が押し黙って自身の信仰を堂々と告白せず、やがて来るべき時における罰への不安を恐れて身を隠しているとしましょう。聖霊はそのような人に、舌を縛られていて話せないのは自身のなかに聖霊のみ恵みを持たないからではないかと、ただ良心をもって考える機会を与えます。ここまででユダヤ人の間にあった古い律法における、またキリスト教徒の福音の時代における、ペンテコステや聖霊降臨節の祝祭のはじまりについておわかりになったでしょう。
三つにして一なる神~父と子と聖霊
さて、聖霊がどのようなものであって、どれほど頻繁に人類に対して奇跡のような業を働いているのかを考えてみましょう。聖霊は霊的で神聖な存在で、父と子と並ぶ神の第三の位格であり、他の二つから生じるものです。このことは実際に、アタナシウス派の教条にあり、神のみ言葉の明らかな証しによってわかりやすく示されるものでもあります。わたしたちはキリストがヨルダン川で聖ヨハネから洗礼を受けたところで、聖霊が鳩の姿で降って来て、父が天から声を発せられ「これは私の愛する子、私の心に適う者(マタ3・17)」と言われたことを聖書で読んで知っています。父と子と聖霊は三つに分かれた位格ではあるものの、三つの神ではなく一なる神であるとみるべきです。キリストは初めて洗礼の秘跡を為されたとき「父と子と聖霊の名によって(マタ28・19)」すべての人に洗礼を授けるべく全世界に弟子を遣わそうとなされました。また聖書の別のところでキリストは「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる(ヨハ14・16)」と言われています。さらには「私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者(同15・26)」が来るときに、などとも言われています。
預言は聖霊に導かれ語られていた
新約聖書にはこのような箇所が他にもあって、三位一体における他の位格から明らかに聖霊を区別し、神のみ言葉が持つ永遠の真理を冒瀆することなく誰もそこに疑いを持たないようにしています。その特有の性質について言えば、聖霊は父なる神や子なる神とともに一つで、霊的で永遠であり創られたものではなく、人知で捉えられるものでもなく全能であり、つまりは永遠の神です。それゆえ聖霊は霊なる神と呼ばれ、父と子から出るものとされ、使徒たちがすべての人に洗礼を授けるにあたり、父や子と等しいものとされました。このことがすべての人にはっきり理解されることは聖霊が大いなる力をもってこの世で天なる働きをするために必要です。第一に、聖霊は古い時代の族長や預言者たちの心を驚くほどに統べて、真のメシアについての知識をもって人々の心を照らし、ずっと後に起こる物事についての預言を与えました。聖ペトロが言うように「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったもの(二ペト1・21)」です。かのザカリアにかかわって福音書には「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した(ルカ1・67)」とあります。シメオンやアンナやマリアなど多くの人々もまた、大いなる驚きや人々への賞讃に対して同じようにしました。
マリアは聖霊によって身ごもった
第二に、聖霊は救い主キリストの受胎と誕生における力強い働き手ではなかったでしょうか。ヨセフと一緒になる前に、おとめマリアは「聖霊によって身ごもっていることが分かった(マタ1・18)」と聖マタイは言っています。天使ガブリエルはマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う(ルカ1・35)」と言って、み子を身ごもっていることをはっきりと伝えています。男性を知らないというのに女性が子を宿すとはなんと驚くべきことでしょう。しかし人間の内的な再生や聖化ももちろんのこと、聖霊の働きがあるところで不可能なことはありません。キリストはニコデモに「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない(ヨハ3・5)」と言われました。その際に彼は心の中で大いに驚き、キリストにその道理を尋ね出しました。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか(同3・4)。」これは肉から生まれた肉的な人間の生です。ニコデモは聖霊について全くと言ってよいほど知らず、粗野に考え、どうしてそれが真であり得るのかを尋ねます。人間の再生や新生に内的に働く聖霊の大いなる力を知っていたら、彼はキリストのみ言葉に驚かなかったでしょうし、神を讃えて栄えとする機会を得ていたことでしょう。
聖霊は新しい命をもたらす働き手
神には三つの異なる位格があり、その三つはそれぞれ他にないものを持っています。父は創り、子は贖い、聖霊は聖なるものに再生させます。この三つ目のものついては、わたしたちの理解から遠いところにあるので、誰もが神の霊の秘密で力強い働きに驚くのは無理もありません。とはいえ他でもなく聖霊こそが、善で信仰深い行いをするように人間の心をかき立て、ともすれば好ましくないねじ曲がってひねくれたものとなりかねないものを、神のみ心や戒めに沿うようにさせています。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である(同3・6)」とキリストは言われます。よく言われるように、人間の本性は肉から生まれた肉的なものあり、堕落していて野放図であり、罪深く神に対して不従順で善性の一筋の光明もなく、徳をもった信仰深い働きもなく、ただ悪魔のような考え方や邪悪な行いに堕しています。霊の働きとは信仰の実であり、これは愛のある信仰深い働きです。聖霊はあらゆるものを持っており、それらは聖霊からのみ出ていて、聖霊こそがわたしたちの聖化をなす唯一の働き手で、キリスト・イエスにおいてわたしたちを新しい人間とするものです。神の聖なる霊が子であるダビデにおいて奇跡のように働き、貧しい羊飼いが王たる預言者となったのではないでしょうか(サム上16・12~13)。神の聖なる霊が「収税所に座っている(マタ9・9)」聖マタイに奇跡のように働き、高慢な徴税人が慎ましく柔和な福音記者となったのではないでしょうか。また、聖ペトロがただの漁師であったのに中心的な使徒となったことについて、誰が驚くほかのことをできるというのでしょうか。聖パウロは残忍で血にまみれた迫害者であったのにキリストの忠実な弟子となって異教徒たちに教えを説いたのではなかったでしょうか。このように聖霊が人間を再生させる力は大きく、まるで新しく命を与えているかのようであり、結果として人間はかつてそうであったものとはまったく違うものになります。
聖霊は神殿たる人間の内に宿る
しかし聖霊は人間の霊や新しい命に対して働くだけで十分と考えてはおらず、人間の中にとどまって住まいます。聖パウロは次のように言っています。「あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか(一コリ3・16)。」「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです(同6・19)。」「神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります(ロマ8・9)。」このことについては、聖ヨハネの言葉においても同じです。彼は聖霊にかかわって「あなたがたの内には、御子から注がれた油がとどまっている(一ヨハ2・27)」と述べています。聖ペトロの言葉のなかには「栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださる(一ペト4・14)」とあります。ああ真のキリスト教徒にとって、聖霊が自身の内に宿っていると考えることがどれほど慰めとなることでしょう。聖パウロは「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか(ロマ8・31)」とも述べています。しかしそうとはいえ、わたしはどのようにして聖霊が自分の内に宿っていると知ることができるのかと口にしてしまう人もいるでしょう。「木の良し悪しはその実によってわかる(マタ12・33)」とありますが、聖霊についても同じです。聖パウロによれば、「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり(ガラ5・22~23)、」これに対して肉の行いは「淫行、汚れ、放蕩、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのもの(同5・19~21)」であるのです。
聖霊は人間に力と愛と慰めを与える
ここには、みなさんが自身を映し出し、自身の内に聖霊が宿っているか肉の霊が巣食っているかを見ることのできる鏡があります。自身の行いが徳のある善いものであり、さきほど挙げた神のみ言葉が明らかにしているものと合致するもので、肉によるものではなく霊によるものを美味なものとして求めているのであれば、自身は聖霊とともにあると考えてよいでしょう。自身を省みてそうでないというのなら、自身を欺いてしかいないことになります。聖霊はいつも実り多くみ恵み深い賜物によって、具体的には信仰をもった知恵によって聖書を理解することとともにあります。奇跡を行うなかで、病める人々を癒すことによって、神の神秘を語る預言によって、霊を見分けたり異言を語ったり異言を解き明かしたりといったことによってあります。こうした賜物はすべて一つの霊から生じているのですが、聖霊の目に見える采配により、分かれ分かれに人間に与えられます(一コリ12・7~11)。このような賜物によって、人間は理由なしに神の大いなるみ力を讃えることができます。『使徒言行録』に書かれていることに驚かない人がいるでしょうか。使徒たちはエルサレムの最高法院で堂々と信仰を告白しましたし(使5・29~32)、自分たちがキリスト・イエスの名と信仰のために鞭打たれる者となれたことに嬉しさと喜びをもってそこから出ていきました(同5・41~42)。これは聖霊の大いなる働きによります。聖霊は試みや苦しみにおいて人の心に忍耐や喜びを与えるゆえに聖書の中で慰め主と呼ばれています。また、ペトロなど使徒たちの力強く信仰深い説教に接して驚かない人がいるでしょうか。彼らは学問を修めたわけではなく、生まれつき持っていた本性をもって使徒と呼ばれるに至りました。これもまた聖霊の大いなる働きによります。
聖霊は信じる人を教え導く
聖霊は神やみ言葉について真の知識を持たない人々を導くゆえに真なる霊と呼ばれ、その名を付されています。エウセビオスは『教会史』で、学識があるものの陰険であるひとりの哲学者について奇妙なことを記しています。この哲学者はキリストとその教えに大いに反していて、信仰に帰依するなどとは思われず、しかし自身に対して向けられるあらゆる反論を難なく退けることができていました。やがて、知恵も足りなければ知識も少ない、ひとりの貧しく学識のない人が現れるのですが、彼は学識ある人々の間では無能な者とみなされていました。この人が神のみ名において、この高慢な哲学者と論争したいと申し出ました。居並ぶ聖職者や学識のある人々はこのことについて大いに驚きつつ不安になりました。論争での彼の発言をきいて、自分たちがみなうろたえ恥をさらしてしまいかねないと思ったからです。しかし彼はそれにもかかわらず進み出て、主イエスの名において論争を始め、ついにはその哲学者をすべての人々が予想していたところとは反対のところに追い込みました。彼はこの論争のなかで神のみ力を持つことはできなくても、み力を信じていたので、真理に勝利をもたらすことができました。これは奇跡的な働きではなかったでしょうか。学識を持たないどこにでもいるような人が、大変な知識をもった多くの聖職者たちが為し得なかったことを為したのです。これはベーダが「聖霊が導き教えるところには、学識の差などない」と言っているとおりです。わたしたちの目に極めて素晴らしく驚くべきこととして映る聖霊による大いなる賜物やみ恵みについては、ここでもっと多くのことを挙げることができますが、すべてを語れば冗長になり時間がなくなります。みなさんには最も大切なことについてお話しましたので、他にお話しなくてもこれについてはもう理解できることでしょう。
まとめと短い祈り~第2部の予告
さて、ひとつの問題について考えましょう。聖霊が自身の内に宿っていると自慢して言いふらす者がいますが、彼らはあえてそうしているのだろうかということです。この疑問はとても重要であり意味深いものですので、神のみ心により、この説教の次のところで明らかにしたいと思います。今この時に、父なる神とみ子イエス・キリストに対して、この世に慰め主を降ろしてくださったことへの心からの感謝を献げ、この聖なる霊の力によって神がわたしたちの心の内にみ業を為され、わたしたちがあらゆる善性と正しさと荘厳さと真において再生して新しく生まれ、やがて神の天なる王国において永遠の命を受け継ぐ者となるように、慎ましく祈りましょう。主イエス・キリストを通して献げます。アーメン。
今回は第二説教集第16章第1部「三つにして一なる神」の試訳でした。次回は第2部になります。まずは解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。
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