思い違いをするべからず(1)(第二説教集10章1部試訳1) #133
原題:An Information for them which take offence at certain places of the holy Scripture. (聖書の一部に疑いを持つ者たちにかかわる説教)
※第1部の試訳は3回に分けてお届けします。その1回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(4分59秒付近まで):
聖書から得られる恵みは大きい
愛すべき者たちよ、聖書の御言葉を聞いて読むことによってキリスト教徒が男も女も与ることのできる御恵みはあまりに大きく、その大きさを誰も正しくは捉えられません。ましてわたしの発する言葉でそれを言い表すことなどできません。しかしわたしたちの敵であるサタンは、聖書が神を真に知るに至る正しい道そのものであるということと、キリストの教えが聖書の御言葉を勤勉に聞いて読むことによって深まっていくものであることを知っています。また一方では何がその妨げになるのかも知っていて、聖書を通じて人々を神と御国に向けるようにみせながら、神の教会から離れさせることができてしまいます。残忍な暴君や凶暴な迫害者など神とその無謬の真に敵対する者たちは、サタンが意図するとおり、いたるところで暴力によって聖書を人々の手から奪っています。悪意をもって聖書を破って焼き払い、極めて不実なことに、神の御言葉を真摯に聞いて読めばかえって異教や肉的な放埓を招くとしています。さらには、よく統治された国で善き秩序が捨て去られるに至るとしてもいます。このように正しく神を知ることによって悪を招くことになるというのなら、わたしたちは聖書の御言葉を聞いて読むことが異教や肉的な放埓だけでなく、あらゆる善き秩序の崩壊につながると認めなければなりません。
聖書は神の霊感を受けて書かれた
しかし、神を知りわたしたち自身を知ることは悪に至ることから遠く離れています。むしろこれは肉的な放埓を慎み、肉的なものへのあらゆる愛着をなくすための最も効き目がある手段というよりはそのための唯一の手段です。神を知りわたしたち自身を知るに至る王道は勤勉に聖書の言葉を聞いて読むことです。聖パウロは「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもの(二テモ3・16)」であると言っています。わたしたちキリスト教徒は聖霊の霊感によって書かれた聖書よりも、この世の人間が書いたものによって、より的を射るかたちで神を知り自分たち自身も知るようになれると考えていいのでしょうか。聖ペトロは「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったもの(二ペト1・21)」であると述べています。聖霊は真についての教師であり、救い主キリストが言われるように、わたしたちをあらゆる真へと導きます(ヨハ16・13)。
聖書に拠らなければ深い誤りに陥る
この教師に導かれも諭されもしない者は、どれほど信仰深くあるようにふるまおうと、どれほどの知恵や学識を人間が書いた著作物から得ていようと、また世の評価に照らしてどれほど美しい真を持っているようにみせようと、深い誤りに陥るほかありません。たとえ「自分は神に受け入れられる高潔な生についての真の全き知識を持っている」と言うとしても、キリスト・イエスとその教えこそがそれであるというのに、それ以上のものを見ることができるというのでしょうか。聖書にはキリスト・イエスの美しい御言葉と御心に適った生が極めて生き生きと描かれ、わたしたちの目の前に示されています。真の生によって自分たちの生が形づくられていることをみれば、生の全き形をほぼそのまま理解することができます。聖パウロは「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者となりなさい(一コリ11・1)」と言っています。聖ヨハネは「神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません(一ヨハ2・6)」と書簡の中で述べています。聖書に拠らなければどうやってキリストの一生を学べるというのでしょうか。また聖書のほかに心の病やあらゆる悪弊を治す薬があるというのでしょうか。そのようなものが神ご自身で書かれた聖書のほかから得られるというのでしょうか。
神はすべての人々に与える方である
キリストは頑迷なユダヤ人たちに「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ(ヨハ5・39)」とご自身で語られています。聖書の中に永遠の命があるというのは、その中に現代のあらゆる病に対する治療薬があって、永遠の命に通じているということです。天の知恵を得たいと望むのに、なぜわたしたちは聖ヤコブが「惜しみなくすべての人に与えてくださる方(ヤコ1・5)」としている神の知恵ではなく人間の知恵を学ぶのでしょうか。そうです、なぜわたしたちはそれをキリストの御言葉から学ばないのでしょうか。キリストは世の終わりまでご自身の教会とともにあると約束されました(マタ28・20)。慈しみと憐れみをもってわたしたちとともにあるだけではなく、現に聖書のなかでわたしたちに語りかけているように、神がおわしますことを信じる人々の大いなる永遠の喜びのために、その約束を果たされます。キリストは聖書の中で、同じ時代に生きた肉的なユダヤ人に対して語られたよりもわかりやすくわたしたちに語りかけられています。
わたしたちには目と耳と信仰がある
彼らユダヤ人はわたしたちがいま聞いて見ているものを聞くことも見ることもできていませんでした。わたしたちにはキリストの御言葉を聞きそのお姿を見るための耳と目とがあります。わたしたちにはキリストの聖なる御言葉に耳を傾けてそれを読むという真摯さと、キリストの極めて固い約束を信じる真の信仰があります。この世にはキリストの御足を写したとされるものを目にしただけで何度も跪いてそれを崇拝する者もいます。しかし、わたしたちが望みさえすればいつも目にすることのできる聖書では、ああ、キリストの御足を写したものなどという、ほとんどというより全く崇敬の念を持てないものとは違う、キリストの生き生きとしたお姿すべてを見ることができます。
今回は第二説教集第10章第1部「思い違いをするべからず」の試訳1でした。次回は試訳2になります。最後までお読みいただきありがとうございました。
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