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施しをする人は欠乏しない(第二説教集11章3部試訳) #144

原題:An Homily of Aims-Deeds, and Mercifulness toward the Poor and Needy. (助けを求める貧しい人々に対する施しと慈善についての説教)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(23分34秒付近から):


第1部と第2部の振り返り

 みなさんは施しに関して二つの話を聞きました。第一のものは、その行いをすることが神のみ前でどれほど喜ばしく受けとられるものであるかというものでした。第二のものは、そのような行いに自分を向かわせることによってどれほどの恵みがもたらされ、どれだけの益を得るかというものでした。さて、三つ目のお話をします。多くの人々がこの行いをできないでしまっているもととなっているものを取り除きましょう。施しを行うということがどれほどみ心に適うことであり、神はどれほど多くのみ恵みを慈愛のある人々に向けていて、そのような人々にはどのような果実や利益がもたらされているかはお分かりのとおりです。しかしその中で、神のみ恵みを受け神の愛を向けられる者として自分こそが相応しいとする者がいます。神のみ恵みを受け恩寵に与るのに相応しいと考えるこのような者に限って、大変な貪欲さに動かされ、びた一文すら、パン一切れすら、施しなどしません。ほんのわずかであっても施しをするまいといつも猜疑心をもって疑い深くありながら、財産を浪費して貧しくなり十分に生活することができなくなると、他の人々の施しを請い、それにすがって生きることになるものです。そのうち彼らは神の恩寵を離れてもよいとする言い訳を探し、愛に満ちた慈悲心をもってキリストに倣ったりキリストを求めたりするのではなく、むしろ貪欲さをもって悪魔に傾くことを選んでいます。

貧しい人に施す人は欠乏しない

 ああ、肉体のみならず魂をも蝕んで腐らせ、魂を肉体もろとも地獄の業火に落とすこの悲惨な人性を彼らから取り除く巧みで熟練した医師とは誰でしょう。わたしたちの中にはいません。愛すべき者たちよ、その医師であるイエス・キリストを真摯に求め、彼が慈悲をもってわたしたちに真を教えてくださり、あまりに危険な病に対する良薬を与えてくださることを願って励みましょう。貧しい人々に施しをすることによって自身が物乞いに身をやつすことになるのではないかと恐れるのであれば聞いてください。キリストに献げるべくみなさんが自身から出すものは、けっして無駄に浪費されることはありません。わたしの言うことを信じることができないとしても、信仰を持っている真のキリスト教徒であるなら、聖霊を信じ、それが説くみ言葉の偉大さに信頼を置いてください。聖霊はソロモンの言葉であるとして「貧しい人に与える人は欠乏することはない(箴28・27)」と語っています。買い溜めてものを抱え込むことが裕福というものであるととらえるならば、ものを配って手放すことは貧困につながるということになります。たとえそうすることが極めて大切なことであり、み心に適っているとしてもそう考えられてしまいます。しかし聖霊はあらゆる真を知っていて、わたしたちにそれとは正反対の教訓を与えています。蓄えがなくなることのない支出というものがあって、ひどい貧困を人間にもたらす蓄財というものもあると聖霊はわたしたちに説いています(同11・24)。施しを行う善き人が欠乏することはないということに続けて、「貧しい人に目を覆う者は多くの呪いを受ける(同28・27)」と聖霊は語っています。

エリヤと貧しいやもめの逸話

人間の考えと聖霊の考えにはなんと大きな違いがあることでしょう。聖霊に満たされた聖なる使徒であるパウロは、神の隠されたみ心に思いを致し、広い心を持って施しを行う人ならば決して貧しくはならないと説いています。「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたに種を備えて、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます(二コリ9・10)。」ここで聖パウロは信施を行う人に欠乏というものはないと言おうとしているということに加え、神がのちに彼らに与えてくださるものを示しています。神は種を蒔く人のために種を増やされ大いに実をつけさせるのと同じく、彼らの持っているものを増やして大きな財産とし、それが有り余るほどの状態を作られます。わたしたちが聖パウロの言っていることを言葉でだけとらえて真実を見ないでしまうということのないように、王たちの第三の書にある逸話を読み、このことが極めて確かな真実としてあることを確かめましょう。ある貧しいやもめが神に遣わされた預言者エリヤに出会ったのですが、大飢饉が起きて食物が手に入らず、「かめのなかに一握りの小麦粉と瓶に少しの油があるだけ(王上17・12)」の状態にありました。自身と息子のために料理をしてそれを食べてしまえばあとは死を待つほかないというところにあったにもかかわらず、彼女はそのなかから都合し、自身が空腹であることを隠し、慈愛をもってエリヤに食べ物を分け与えました。飢饉は続きましたが彼女は神の祝福を受け、「かめの小麦粉は尽きず、瓶の油がなくなることはないとなった(同17・14)」という状態になり、「彼女もエリヤも、彼女の家の者も幾日も食べることができた(同17・15)」のです。

この逸話から学ぶこと

 み言葉を信じず、み力を小さいと考える不信心で信仰心のない貪欲な者には、この逸話について考えてもらいたいのです。過酷でしかも長い飢饉のときにあって、この貧しい女性には一握りの小麦粉と少しの油しかなく、そのひとり息子は目の前で飢え死にしそうであり、彼女自身も死を待つばかりでした。それなのに空腹の預言者が現れて施しを求めたとき、彼女は寛大な慈愛の心をもって、自身の苦境をさておき、自身が施しを受ける側であるのに義の行いをして、自身と自身の息子の命を犠牲にしようとさえしました。いま小麦粉も飲み物も大量にあり、それどころか大量にありすぎて腐ってしまってもいるのに、言いかえれば、金や銀の大きな塚があって、最も持たない者でも十分すぎるほどに持っているのに、わたしたちはどうであるというのでしょう。いまこのときにおいて、神に感謝すべきことに大飢饉の苦難にはなく、子どもたちにもよい身なりをさせ十分にものを食べさせてもいて飢え死にする恐れなどまったくありません。家の戸を叩く貧しく飢えた裸のキリストに救いの手を差し伸べて、持っている十分のものからいくらかを分け与えたとしても、極貧に陥る恐れや危うさを持ってはいないでしょう。

慈愛を持たない者への報いは何か

この貧しいが心の広いやもめは、悲惨な境遇にあっても自身が持つべきものを疑わず、決して神が預言者を通じて為した約束に不信を持たず、むしろ神が遣わされた飢えた預言者を迷うことなく助け、自身の必要よりもその預言者の必要を優先しました。それにひきかえわたしたちは不信心な者と同じで、銅貨一枚を施すにしても、貧しい人々に施したところで自分に返ってくるのか、あとで必要になるのではないだろうか、いま手元からなくなったらどうなるだろうかと、あまたの心配を持ってしまっています。強い釘を柱から引き抜くよりも、手の中にあるごくごくわずかのお金をむしりとるほうが難しいとことわざにあるとおりです。わたしたちの目には神への畏れも愛もなく、神の国を望んだり悪魔の獄舎を恐れたりするよりも、目の前のびた一文に拘ってしまっています。慈愛を持たない守銭奴に耳を傾けてもらいたく思います。慈愛を持たない者の行いへの報いは何でしょうか。確かなことに、神は飢饉のときにこの貧しいやもめに食べるものを与え、そのわずかしかなかった蓄えを増やされました。その結果として彼女は十分な食べものを持つことになり、ともすれば死んでしまうというほどの極貧を感じることもなくなったのですが、これと同じくらいに確かなこととして、神は裕福さのただなかにある者に貧困の災厄をもたらされます。食べものが豊富にあって十分に満たされているのに無駄遣いすれば、その持てるものを奪われて虚しい栄えや富もなくすことになります。穏やかに自身の持てるものを享受し、他の信心深い人に施しをするべきです。

まず神の国と神の義を求めよ

そうしなければ、自身が持つはずのものを悲しみやため息をもって求めることになるでしょうし、それをどこに見つけ出すこともできなくなります。隣人に慈愛の心を持たなければ、自分に慈愛を向けてくれる人を見つけることなどできないでしょう。隣人に対して石のように頑なな心を持てば、神に創られたすべての人々が真鍮や鉄のように固い心を向けてくることになります。ああ、わたしたちの心は、真というものにかかわって、なんと愚かで狂った考えを持っていることでしょう。それが極めて確かなものであるということに思いを致すこともせずに、わたしたちは真を信じないでしまっています。キリストは「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる(マタ6・33)」と言われています。わたしたちはこう言いましょう。わたしは自分がひとりで身を立てることができると知っていて、自分と自分の家族について十分なだけのものを持っていると確信しています。ものを持っているのですから、わたしは神の恩寵を受けてそれを貧しい人々に施しともに分かち合います。

憎むべきものを愛してはいけない

 ここでみなさんに、人間の歪んだ考え方についてお話しましょう。わたしたちは自分の魂が滅ぶのを目にすることへの恐れを持つよりも、死体にものを食べさせることに意識を持つべきなのだろうかということです。キプリアヌスは次のように言っています。「自分の所有するものが自分の自由にならないものとなってしまうのではないかと疑えば、自分の命や健康もまったく自分の自由にはならないものになるだろうということに我々は疑いを持たない。我々は自分の蓄えがなくならないようにと気をつけているのだが、自分たちを死なせてしまうことに全く気を付けていない。」拝金に陥れば、わたしたちは魂を失ってしまいます。わたしたちは自分の財産がなくなるのではないかと恐れますが、そう考えることで自分が滅ぶのではないかとは恐れていません。わたしたちは憎むべきものを愛していて、愛すべきものを憎んでしまっています。わたしたちは気を付けるべきところに散漫でありながら、その必要のないところに気を配ってしまっています。

神は施しをする人を滅ぼさない

貧しい人に施しをすれば自分の持てるものがなくなるのではないかという虚しい恐れは、子どもや知恵の足りない者が持つ恐れにとてもよく似ていています。グラスが明るく輝いているのを見れば、それが光を出しているものであると考えるようなものです。グラスの輝きはそれ自体が光を放っていてのものではありません。貧しい人に施しをすることによって自分が貧しさに陥るのではないかと考えるのは、虚しい恐れにとらわれてしまっているということです。貧しい人に施しをすることで悲惨にも極貧に至り、神に顧みられなくなった人がいるなどということを、わたしたちは聞いても知ってもいません。それどころか、すでにお示ししたあまたの逸話によって明らかであるように、わたしたちは聖書の中でまったく反対のことを読んで知っています。どのような形であれ、神に心から揺るぎなく仕える人を、神は貧しさに追いやりはなされませんし、まして滅びに至らしめられるなどということはありません。

神は揺るがず仕える人に慈悲を与える

 聖霊はソロモンの「主は正しき者の魂を飢えさせず(箴10・3)」という言葉を示しています。ダビデは慈愛をもったすべての人に対してこう語ります。「主の聖なる人よ、主を畏れよ。主を畏れる人は乏しいことがない。若い獅子は獲物がなくて飢えるが、主を尋ね求める人は、いかなる良いものも欠けることがない(詩34・10~11)。」エリヤが砂漠にあったとき、神は烏に命じて食事を与え、昼も夜も十分に食べさせました(王上17・4~6)。ダニエルが獅子の穴に閉じ込められたとき、神は彼に食べ物を用意され、彼のもとに届けられました。ダビデの言葉に「若い獅子は獲物がなくて飢えるが、主を尋ね求める人は、いかなる良いものも欠けることがない(詩34・11)」とあるとおりです。獅子たちは獲物に飢え、それを欲しがって吠えたけっていて、そこでダニエルの肉体を与えられたはずなのですが、彼を襲うことはありませんでした。目の前に現れたのが、その肉を食べれば自分たちの空腹が満たされたはずの人ではあったのですが、その人は神に食べ物を与えられ養われていた人であったためです。このように神は力強くも、ご自身の愛される人々を守るためにみ業を為されます。どのような形であれ揺るぎなくご自身に仕える人々に、神は慈悲深くも食べ物を与えられるのです。

神のみ恵み~まとめと結びの祈り

 しかしわたしたちはここで、み言葉に従い、み心に適って貧しい人々に憐れみを向けているから、神はわたしたちに寛容であられると考えてよいのでしょうか。そうではありません。わたしたちがそれを得ようと意図して何かをするということがなくても、神はわたしたちにあらゆる富を与えてくださります。わたしたちが真の行いをしても、神はわたしたちが必要なものを欠かしているままになされるのでしょうか。キリストに食べ物を与える人がキリストに見捨てられ、食べ物のないままにされてしまうこともあると考えてもいいのでしょうか。あるいは、キリストはこの世の事柄について、天にある事柄をご自身が真に約束なされた人々に対して否定されるのでしょうか。親愛なる兄弟たちよ、施しをすることによってわたしたちがいつか困窮する、言いかえれば他の人々に必要なものを施すことでわたしたち自身が貧困に追い込まれるということはありえません。そのようなことはみ言葉に反しますし、神の約束に反します。またキリストのお姿ではありません。それは悪魔がわたしたちに言い寄ってそうさせようとする狡猾な考えです。進んで施しを行うことを思いとどまってはなりません。そうではなく、わたしたちがこのかりそめの世に生きている中では、神の善性によってわたしたちには十分に豊かなものがもたらされ、そして神への務めをよく行ったこの世での生ののちは、親愛なる兄弟たちよ、救い主キリストとともに、わたしたちは永遠の栄えの冠を受けるということを信じましょう。キリストに、神と聖霊とともに、すべての誉れと栄えがとこしえにありますように。アーメン。


今回は第二説教集第11章第3部「施しをする人は欠乏しない」の試訳でした。これで第11章を終わります。次回は第12章に入ります。まずは解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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