コンプレックス 21
ボクの方は、金沢で当初宴会のオペレーションを見ていたが、
もう退屈で退屈で、なんでこんなに退屈な現場を見てなきゃいけないのかなぁ・・・
なんて思っていたところに、西洋コンチネンタルホテルスクール金沢が開校する話しが持ち上がり、
ボクはそのスクールの料飲選任講師に抜擢された。
このホテルスクールは、従来に専門学校とは違い、ホテルの中にあるホテルスクールで
2週間のスクーリング(Off J.T.)と2週間の実習(O.J.T.)を交互に繰り返していくスタイルであった。
これは、オーストラリア・シドニーインターコンチネンタル内に併設されているホテルスクールの
やり方を参考にしてオープンすることになったものである。
それからは、退屈だった日々が嘘のように忙しくなった。
東京へ行く機会も増えた。
自分自身のトレーナースキルを教えてもらうのと平行して、カリキュラムも作らなくてはならない。
もう毎日パニック!時間がどれだけあっても足りない!
そんな感じであった。
人に物を教えることは簡単なことでは無い。それでお金をもらう仕事をこれからするわけで、
ボクはマンツーマンで葛田先生という方からインストラクションのスキルを伝授してもらうことになった。
一コマ90分の時間の割り振りから、しゃべり方、身のこなし、ビジュアルの使い方、質問の仕方、
パフォーマンスの設定と実施など、ありとあらゆる手法を実践しながら教わった。
喋りには割合自信を持っていたのであったが、徹底的にダメだしされた。
90分の模擬授業を録画して最初から徹底検証していくのだ。
通常、人は喋る場合に「え~」とか「えっと」とか「あの~」とかという言葉を何気なく
付けることが多い。
これは、本人が喋っていく上で、リズムみたいなものでもあるのだと思うが、
客観的に見た場合、まことに邪魔で不愉快なものでもある。
ボクにもそういう傾向は有ったし、語尾に○○ですね!と、やたらと「ね」を使うことが多かった。
全てダメだしされ、何度も何度もやり直しをされた。
正直、かなり苦しかったし、先生のことを恨んだりもした。
ところが人間努力をすれば出来るようになるものである。
90分の授業の中で、一度も「あの~」も「え~」も言わずに喋ることが
出来るようになった。
これは意識の問題かと思う。
今でも講演などをする際は勿論、日常の会話の際も気を付けるようにしているが、
この話し方が出来る人は、アナウンサー以外にはそんなに多くいないのである。
ボクは、その時は恨んでいた葛田先生を今は最高に尊敬と感謝の念でイッパイである。
結局、開校はしたが、カリキュラムの詳細は当然のように間に合わず、毎日、翌日の資料を
作りながら授業をしている始末!
完全な自転車操業であった。
毎日、ドキドキものであった。
ホテルスクールのカリキュラムは、大きく3つに分かれていた。
先ず専門分野(宿泊か料飲の2コースあった)、そして語学、リベラルアーツ。
中でもリベラルアーツは、非常に多岐に渡った内容で、法律、旅行、お茶、お花、
ビジネス文書、陶芸、テーブルコーディネートなどなど・・・
時間が有れば、ボクも一緒に受講したいような内容ばかりであった。
しかし、1年目は全くそんな余裕は無く、自分が授業を担当していないときは、
ただひたすら、自分の授業の準備で必死であった。
宴会の授業で披露宴の音楽というパーツを作り、井澤氏に金沢に来てもらった。
ホテルの社員も含めて、模擬披露宴を実施し、臨場感を味わってもらったのだ。
そしてその素晴らしさに魅せられてか、彼はその後金沢に演奏の仕事で何度も
呼ばれたのであった。
そんな金沢時代、ボクは外部の仕事にも多く携わっていた。
これはボクの恩師の葛田先生からいただいた話がほとんどである。
沖縄に新しくオープンするホテル・ロワジールの教育も担当していた為、
当時沖縄にはかなりの回数足を運んだ。
そのロワジールの結婚式のシュミレーションにも井澤氏に来てもらった。
金沢から広島に転勤になってからも、仕事で広島にも3回ほど来てもらい、
「笹川さんのお陰で、全国で演奏できてうれしい!」と彼も満足そうであった。
金沢時代に、井澤氏と一緒にハワイに行ったこともあった。
ボクは、ハワイは初めてであったが、なんと井澤氏は10回目位、
場所の案内は井澤氏で、英語が必要な場合はボクが活躍するという、
過去に行った海外旅行の中で、一番楽しい旅行となった。