益田Dr.の本を読んだら、私がヨガ哲学を学びたい理由がわかった気がした話
たまに活字をガッと読みたくなって、TSUTAYAや図書館へ行くことがあります。
ホントは東洋哲学や、脳科学の本で欲しいものがいくつかあるのですが、そっち系の本って高いですよね…。
買って手元に置いておきたいところですが、この物価高で気軽に本や雑誌に手が出なくなりました(お米高くなりましたよね!)。
そんなわけで今回は図書館へ行くことに。
心理学のコーナーに精神科医YouTuberで有名な益田裕介先生の著書を発見!
かれこれ1年以上くらい、益田先生のYouTubeをちょこちょこ見ています。(全部の動画は観れてないですが)
発見した本のタイトルは「精神科医が教える 親を憎むのをやめる方法」という、どストレートなもの。
私と両親との間に、ものすごい酷なことがあったわけではありませんが(しかしそれなりに課題が多い家庭だった)、
益田先生が書いたものなら読もうと思って借りてきました。
家で読んでいると息子くんから「なんでそんな本読んでるの?」と眉間にシワを寄せながらと一言。
息子くんからしたら、ばぁばと私に何かあるんか?母ちゃんはばぁばを憎んでいるんか?
と受け取ったのでしょうね。
(ちなみに私の父は20年以上前に他界しています)
「いやー、推しのYouTuberドクターが書いた本だから借りたのよ。ばぁばと母ちゃんの間に何かすごいことが起こったとかではないよ。まぁ色々あるけどさ」
と伝えました。
「あっそ」と納得したのかしてないのか、よくはわかりませんが。
息子くんがどう思ったかはさておき、興味深いことがたーくさん書かれたこの本。
タイトルはドキッとしますし、親子のドス黒い何やかやが書かれているのかなという印象を持ちます。
でも、そんなグチャグチャした症例ばかりがあるのではなく、精神医学や、時代や家族を背景とした社会学から「親子の問題」を紐解いています。
客観的に冷静に、親子に起こる問題はどこからやってくるのか、が書かれているのですが、文章の端々に「これはヨガ哲学の視点?」と共感するものがたくさん!
前置きがめちゃくちゃ長くなりましたが…。
益田先生の本を読んで改めて、学び続けていくことの尊さなんかを噛み締めました。
読んでいくうちに、飽き性で運動神経ダメダメな私が何故ヨガをやり続けているのか、
私の「不安」はどこからやってきたものか、
今回はその事について書いていきます。
長くなりそうな予感がしますが、もしよかったらお付き合いください。
大人になったら嫌な事がなくなって、色々うまくいくと思っていた
私の子ども時代は、あまり輝いたものではなかったです。
勉強ができたわけでもないし、運動神経なんて下。文字通りパッとしない子どもでした。
一番きつかったのは、中学生の時。
女子特有の、ネチネチしたあの陰湿な人間関係がホントに嫌でした。
いじめの加害者が被害者になって、その被害者がいきなり加害者になってっていう。
あの訳のわからない人間関係。
勉強は難しいし、校則も変なとこで先生たちがワーワー言ってるし…。
家に帰れば両親が勉強のことでうるさいし、あんま夫婦仲は良くなくてギスギスしてるし。
中学校は嫌な思い出しかないです。あの当時は不登校なんて、ごくごく少数。学年に1人か2人。
頑張って通いましたけども…キツかったですねー。
高校は女子高でしたが、友達に恵まれていたこともあり、それなりに上手く過ごせました。
とはいえ、ずっと「不安」を抱えていた10代。
自分に自信が持てなくて、「どうせ私なんて」という思考によく囚われていた気がします。
大人になればどうにかなる、早くこんな状況から抜け出したいと思っていました。
大人になったって「不安」からは逃れられない
成人して「大人」になって、はや20年以上が経っています。
当たり前といえば、当たり前なんですが大人になったからって「不安」がなくなるわけではないんですよね。
むしろ子どもの時より、色々なことを背負わないといけないので大変。
「大人になれば、いつか楽になると思っていたのにどうして…。」と30代の頃はよく思っていました。
どうしてこんなに「大人」に理想を抱いていたのか、「大人」になったら何かが解決すると思っていたのか?
そんな思考になった原因は色々あると思うのですが、益田先生の本を読んでハッとした文章がありました。
父親を「神様」のように思っていた子ども時代
私の父親は「THE・昭和の親父」でした。(ちゃぶ台はなかったから、ひっくり返らなかったけど)
暴力こそありませんでしたが、父親の言うことは絶対!反抗なんて、もっっってのほか。
今でいう「教育虐待」まではいきませんでしたが、まぁギリギリのところかなと。
進路には相当口を出されましたし、父親が望むように英語をめっちゃ勉強しました(今ではスピーキング能力0に近い)。
父親に逆らったら怒られる、とか、父親の機嫌はどうだろうか、とか、英語の成績良かったから大丈夫かな、とか無意識のうちに気にしていたと思います。
当時、志村けんのバカ殿様とか、とんねるずの番組とか楽しいバラエティ番組がたくさんあったのですが、そういうのは全て禁止。
そのせいで、クラスメイトの話題についていけない時もありました。
私は父親が怖かったし、「なんで自分の家だけこんななんだ」とよく思っていましたね。
まぁそんな父も、私が18歳の時にガンで亡くなりましたが。
父親が言うことは絶対!の家で育ったので、父親を客観的に見られないし、益田先生の文章にあるように、父親を無意識に「神格化」していると思います。
親の言うことさえ聞いておけば、ちゃんとした大人になれる。
誰かの言うことを聞いておけば、間違いは起こらない。
「私」ではなく、「誰か」の言うことを聞いておけばいいんだ。
すごく「他者」任せな思考が私の心に根を張っているため、その人の機嫌や態度が気になって仕方がない。
つまり、人の機嫌や態度に振り回されるので「嫌われたらどうしよう」などの不安が、常に私の思考を支配しているようです。
…やれやれ。
客観的に物事を観るということ
ヨガをしたり、東洋哲学や精神医学の本を読んだりするなかで、他人軸から少しずつ自分軸へとシフトしています。
しかし、40年以上にわたって根を張り続けてきた「他人軸」思考はなかなか手強い。
ある程度気をつけていないと、今の私の家族の言動にさえ過剰に反応してしまい、ストレスをすぐにためてしまうことに。
「他人軸」に傾き過ぎないように、客観的に物事を観る訓練として、私はヨガや瞑想をおこなうようにしています。
もちろん出来ない日もありますが。
「物理的現実」と「社会的現実」
ヨガではとにかく、「客観的に」「冷静に」「ジャッジしない」目で自分を見つめるように言われます。
課題はたくさんありますが、少しずつそんな目を育てている途中です(たぶん育ちつつある…)。
「客観的に観る」ことは、何も自分の肉体や精神だけに限らず、物事や他者など自分以外の「何か」に対しても同じで、それは親に対しても大事であることを益田先生は述べています。
益田先生は「物理的現実」と「社会的現実」をお寿司に例えてあります。
お寿司の物理的現実は、「魚」と「米」。
社会的現実は、「高い」「おいしそう」という意味づけをしている状態をいうようです。
親に対しても同様で、「厄介な人」「怖い」などの意味づけを取り払って、できるだけ物理的現実(親の生い立ちなど)に近づけるように、と。
つまり、感情などは入れず(難しいですが)、客観的にありのままを観る・知る姿勢が必要。
この文章を読んで、勉強中の「ヨーガ・スートラ」(ヨガの教典)を思い出しました。
ヨーガ・スートラの”煩悩”(クレーシャ)の一つ「無知(アヴィディヤ)」
「煩悩」と聞くと、除夜の鐘とか、108とか、良くない思い、なんかを思い浮かべるかと思います。
ヨーガ・スートラが言う「煩悩」は「無知(アヴィディヤ)」「自己意識(アスミター)」「欲望(ラーガ)」「嫌悪(ドゥベーシャ)」「死への恐怖」です。
無知についてヨーガ・スートラでは、このように述べられています。
ヨーガ・スートラで述べられている「無知」とは、何も知らないことを指すのではなく、間違った知識(認識)です。
真実や本質を理解していないがために、真実ではないことを真実だと思い込んでしまう。
益田先生が例えに出した寿司を例にあげるなら、寿司は寿司であることが真実です。
魚と米。
でも、「高い」「美味しい食べ物だ」など、自分の経験に基づいて生まれた感情で寿司に意味づけをしてしまう。
その寿司が自分の感情とマッチすればいいのですが、「思いのほか美味しくなかった」など自分が思いもしなかったものだと、落胆したり、怒ったり、残念がったりする。
寿司=美味しいもの、というのは自分が作り出した感情で、絶対に美味しいもの、とは限らないですよね。(そりゃ美味しい方が嬉しいけど)
食べ物を客観的に観ると、食べる喜びがなくなってしまいそうで、少しカナシイですが。
でも、自分の感情というものは見たいように物事を見ている、と思います。
そんな無知を含む「煩悩」は、「瞑想によって打ち消すことができる」とヨーガ・スートラには書いてあります。
こんな教えが紀元前からあったなんて、驚きですし、ヒトの悩みや欠点は昔から変わらないんだなぁと。(ヒトって何のために存在してるんでしょ)
「嫌な事」や「不安」と共存していくには
何度も言いますが物事を客観的に観ることの重要性は、益田先生の本にも、「ヨーガ・スートラ」にも書かれています。
今を生きている精神科医と、むかーしむかしにインドに住んでいたパタンジャリって人が書いたことや、言いたいことが似ているなんてなぁと感動しました。
特にヨガは机上の勉強だけではなく、実践(瞑想やヨガをすること)もあってこそなので、
頭の中の理解でだけで終わらないのが素晴らしいと思っています。
ヨガにしろ、東洋哲学にしろ、精神医学にしろ昔々の人たちが真剣に「生きる」ことに向き合い、
今の私たちと同じように悩み、悲しみそれでも生きていこうと、形にして残してきたことはとても尊い。
その尊さの軌跡を辿ること、知識として蓄えること、実践することが「嫌な事」や「不安」と共に生きていく一つの方法だと思うのです。
漠然とそんな風に思っていたことが、今回益田先生の本を読むことで思いを具体化し、文章にすることができました。
益田先生も”おわりに”で以下のように述べています。
息子くんが不登校から立ち直っても、立ち直らなくても、
私が不安とある程度共存できたとしても、
私が学ばなければならないことはきっと一生続くのだろうな、と思います。
たまに学び続けることに、うんざりすることもあるのでしょうけど。
でも、学ぶべき「何か」があるのはそれはそれで悪くはないのかもしれません。
かなり長く書いてしまいましたが、最後までありがとうございました!
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