はじめまして伊東玲(いとうあきら)と申します。なるべく簡潔に自己紹介したつもりです。
こんにちは。こちらは極めて短い自己紹介にしたつもりです。でもそれでも予定より長いのですみません。内容がよくわからないという方は後からこれのもとになった「おおまかバージョン」の方をお読みください。
発信することが好きです
いきなり大学の准教授に招かれた
大学院を修了したとき、小学校教員の採用試験を受けたら合格になりました。
私は大学卒業後に通信教育で小学校教員免許を取得したのですが、私の出身大学で小学校の教員になった者はそれまでに誰もいませんでした。
さらに教育学修士の小学校教員もまだ当時は珍しく、学校現場でも相当話題になっていたようです。
こうして教員になったものの授業ができず、本当に苦労しながら頑張り、研究したことをあちこちに発信していました。そのおかげで県内外に名前が広がりました。
大学附属小に異動(転勤)となり、毎日いろんな教科の授業研究ができる上に、教育実習の大学生の指導もあるので、私にしてみれば「水を得た魚」状態でした。
ここまではそれなりによかったのですが、教員になって20年余り、知らぬ間に心身の調子を崩していたのでした。
それでしばらく「休職」しなければならなくなりました。
体調が回復してきました。
恩師の方々の勧めもあり、発信の好きな私は短期間で10冊余りの教育関係の著作を書きまくり、それらがWEB書店に並びました。
するとすぐにある私立大学から電話がかかり、「大学へ来てもらいたい」と言われました。文部科学省の審査も合格でした。こうして小学校の教員が、いきなり教員養成課程の教育学部の「准教授」として正規の大学教員になりました。
自由に発信してはならんと言われたので辞めた
大学は俸給も良いし教員の個室も与えられます。それ以上に、学校現場で自分がしてきたことを授業で語ると、私が面食らうほど学生たちから大変な好評でした。
国家資格のもとになる人材育成の講義を担当できる者は、文科省が、現場での実績と論文や著書の数が条件を満たしているか審査します。私はそれに「合格」して大学に行きました。
実はまだ審査に通ってない方々も少なくありませんでしたので、「嫉妬されないよう大人しく」と私は言われていましたが、私は止まれません。
気付けば学科の中では全くの孤立状態になり、私は他の教員との闘いの日々となりました。
そしてとうとう、学会や教育研究会などで私が発信することを、当時の学部の幹部に取り囲まれて、3時間ぐらいにわたって「自由に発信してはならない」と叱責されました。
結局、それで私は大学に辞表を出しました。もう次年度のシラバスができている頃のことでした。
それでその後から今まで何をしているか
最初は勢いだけよかったものの
それで、あれこれ自由に発信するために「街角コンサートホール」「若手音楽家の紹介コンサート」「初心者の音楽レッスン」などを考えて株式会社として登記もして実際にやり始めようとしました。
しかしこれらの目標の実現はうまくいかず、周囲の要望から「塾」のようなことするようになりました。
「パソコンを使った勉強をする塾」
私はさすがに専門ですから既に教育の動向を当時から知っていたのです。コロナ禍の前の、相当に早い時期からやり始めました。でも、早すぎたためにほとんど相手にされず、私が直接に勉強を教えるという形になりました。
すると、学校も塾も「息苦しい」という不登校の子どもたちが来るようになり、いろいろとこちらが勉強になりました。
学校教育の外に出てみると、学校の中にいてはわからないことがたくさんあったのです。
学校現場に戻ったらコロナ禍に遭遇する
そんな頃に、かつての同僚で校長になっている友人から「もう一度あの歌声が聴きたい」と声がかかり、再び小学校の音楽を担当することになりました。授業を始めると成果はどんどん出るので楽しみが増しました。
そんなときにコロナ禍が始まりました。
コロナ禍の学校を経験できたことは貴重なことで、音楽の授業もパソコンを使った音楽授業の可能性をあれこれ試しました。時期的には画期的で内容でありました。その資料はまだ発信していません。
母が倒れて要介護認定されたことから支援の仕事をする
一人暮らしをしていた母が倒れて入院したので自宅に近い学校に変わりました。3カ月の入院をした母は介護が必要になっていました。その手続きや看護や介護をしているうちに、私が体調不良になり学校の講師を辞めました。
母が介護施設に入ると、体調が戻った私は介護施設でリハビリ支援をしたり、昨年には介護の資格も取ったりしました。またその後は、高齢者施設で音楽レクレーションのお手伝もするようになりました。
歴史の好きな私は、母よりも高齢な方々が、子どもの頃のことや戦中戦後の様子など昨日のことを生々しく話してくださるのが、何度同じ話を聞いても貴重でした。そこには人間としての尊厳もあると思いました。
これからどんな発信をnoteでするか
やりたいことは山ほどある
発信したいことを簡単に列挙します。
実際の私がやってきた音楽活動に関するもの
私は人生のほとんどを音楽活動をして過ごしてきました。それらは歴史的事実として記録しておく必要があります。その多くが、なかったことになっていたり、実際と違ったことが語られていたりするからです。
学術的な意味合いのものや実際に役立つ教育関係もの
私の本来の専攻は教育史です。学生当時は、自分の足で歩き回ったり、文献や資料の中から芥子粒を拾うように探し当てたりしてきました。今後の教育史の研究者が、もしも何かの実例がないかと探したときに、ちゃんと見つけられるようにしなければいけません。
私が発掘した歴史的なことで、私しか語り得ないものがあります。
また学校教育について、授業研究や改善の仕方、音楽の授業の仕方、学級経営の私の工夫、これからの展望、時代や社会の変化の中でも変えてはならないものなど、実際に私自身が日々努力して積み上げた成果や失敗を紹介することも必要だと考えています。
私の息子を例とした、早期教育に関する一例の紹介もしなければなりません。冷静に「子育て」の観点からの分析も必要であると考えています。
音楽や歴史、文学などの文化についての話題提供に関するもの
学術的な研究にはならなくても、今後に期待して発信したいものを、話題提供と考えます。
音楽教育で言えば、例えば「絶対音感」や「音痴」など、私は経験的にそれらの話題提供ができます。
音楽について言えば、例えば、フランスの作曲家たちについて、また、長年実際にやってきたアマチュアの指揮法についてなどがあります。
歴史に関しては、まだ埋もれている幕末維新の動きや隠れキリシタンの明治になってからの配流地の様子など、これまでに相当に調べてきてまだまとめてないものがいくつもあります。
文学や美術家についても、親しんで思索を重ねてきた作家や作品について、私なりの考えがあります。
文化や科学や宗教などが意外な結びつきを見せるとき
これらについては、事実と事実を結びつけて新たに発見した例を紹介し私なりの分析や研究を話題提供として出したいと考えます。
創作関係
子どもときから一番なりたいものは、小説家です。この年まで生きて来た現実に不思議な題材がいっぱいありますので、それらをもとに、あくまでも「創作」ということで小説もこれから発信したいと思います。
これからよろしくお願いします
どんどん発信していきたいと考えています
学術的なものや話題提供のもの。自伝風のものやエッセイ風のもの。そして創作。いろんな表現方法の工夫もしたいと考えます。
原稿や講演などの依頼がありましたらお引き受けします
何かお役に立てることがあればご相談ください。また別の記事で詳細はお伝えしたいと思います。