#175 映画 『プロメア』 から学ぶ、「誰もがクリエイター」 時代における創作活動のあるべき姿(ネタバレあり)
今や、スマホ一つで誰もがクリエイター。創作して、発表して、衆目を集めて、首尾よく行けばその才能が世界に見つかる。J-POPのトップアーティストには、ボーカロイドや「歌い手文化」出身の人もいるし、ユーチューバーが芸能人と並んでテレビに出演することも珍しくはない。これは「才能が見つかりやすい」という点で、とても良いことだと思う。
一方で、独善的な正義感で作られた、きわどいコンテンツも同じく衆目を集め、果ては逮捕者まで出る始末となっている。わたしは、そうしたことが起こるのもまた、必然だと思っている。多くの再生数を稼げれば、儲かるシステムなのだから。その方向性に過ちがあったとしても、馬鹿げた行為を楽しむ視聴者がいる限り、残念なことではあるが、続いていくのだろう。
しかし、一度でもクリエイティブに挑戦したことがある者なら、わかるはずだ。それがどれだけの代物であろうが、創作には相応の労力がいる。動画なら、撮影・編集・音楽や台詞と映像の調整。いくら「スマホ一つで」といっても、公開に漕ぎ着くためには、気力や体力と、トライ&エラーから学ぶための時間の浪費すら要求される。内容はどうあれ、一定の努力や情熱がなければ、成し遂げられないことなのだ。
映画 『プロメア』
2019年に公開された映画『プロメア』は、日常生活の中でストレスが爆発する状況と共に、人々が炎を操る種族「バーニッシュ」に変貌する描写から始まる。それは世界中を焼き尽くした、「世界同時大炎上」と呼ばれる惨事であった。
そのような世界で、バーニッシュ火災を鎮火する消防隊「バーニングレスキュー」の新人隊員、ーステレオタイプな熱血漢ー のガロ・ティモスが、本作の主人公だ。
対するは、炎上テロリスト「マッドバーニッシュ」のリーダー、リオ・フォーティア。彼には圧倒的なパワーがある。人々を傷つけたいとは思っていないが、しかし「燃やさなければ生きていけない」と言うのだ。
バーニッシュは差別を受けている。平和裏に暮らす者であっても、バーニッシュであることが発覚した途端に、囚われの身となってしまう。マッドバーニッシュの一党は、そうした世界に抗うためにテロを起こすのだ。そしてリオは、ガロとは対照的に、あくまで冷静なキャラクターとして描かれてはいるが、そのような現実から、内なる力(怒り)を蓄え続けている。
作中で世界を統率しているのは、バーニングレスキューの創設者であり、ガロにとっては命の恩人でもある、クレイ・フォーサイトという人物だ。ここからがネタバレで恐縮だが、彼はバーニッシュを捉える一方で、実はその力を利用して、ノアの方舟さながらに、地球を脱出しようと企んでいる。バーニッシュの出現以降、マグマの活動が活発化し、地球は死の惑星になる、ということを知っているためだ。だからクレイは、選ばれた人間だけを連れて、別の惑星に逃れる計画を立てていたのだ。
プロメア。それは、この世界に突如現れた多次元生命体。プロメアに強く反応した人々が、バーニッシュの力を得た。バーニッシュは地球のコアと繋がっており、彼等に苦痛を強いる限り、この炎の連鎖は止められず、マグマの活動は活発化し続ける。クレイの計画は、冷酷ながらも人類を守るものだと思われたが、実はそれ自体が地球の滅亡を促すものだったのだ。そのことを知ったガロとリオは力を合わせ、クレイの計画と、マグマの活動を止める戦いに挑むことになる。
本作は明るく楽しいエンタメ映画だが、この脚本は、明らかに現代のクリエイター事情を反映しているというのは、決して考えすぎではないだろう。型にはまった人生ではなく、やりたいことをして生きていきたい。いつの時代にも若者はそうした夢を描くものだが、道具(スマホ)だけが夢のような進歩を遂げた時代に向けて、アニメーション制作のプロから送られたメッセージだと捉える見方があってもいい。少なくともわたしは、そうした作品だと感じている。
「燃やさなければ生けていけない」リオに欠けているものが何か、それはガロの「熱い火消し魂」である。そして、消すのは彼らの炎ではない。世界に溢れるストレス、悩みや悲しみ、孤独や憂鬱といった、ネガティブなものを消し去るのだ。そう、例えばリオが漫画家なら、さながらガロは編集者である。創作の才能を持つ者と、それを導く存在だ。二人の力が合わされば、世界をより良い方向に変える作品を生み出すことができる。
更には、本作における黒幕であるクレイにも、役割がある。クレイはバーニッシュ(クリエイター)の力を搾取することで、自らの理想を実現しようとした。彼は、終盤のバトルシーンで必殺技(滅殺開墾ビーム!)を繰り出し、ガロ達に襲いかかる。「こんな装備を作るくらいなら、なぜマグマの停止を考えない!」と、リオから突っ込まれるシーンは、シリアスながらもコメディとして描かれているが、これを先の例えに倣って言うならば、クレイは「出版社」なのだ。その後に続くクレイの台詞は、「それが出来ないから移住しようというのだ!」である。
リオやガロのような人物が、世界を変えたいと願って力を合わせても、数々の権利を握り、豊富な資金を持つ、クレイのような存在が想いを一にしてくれなければ、その願いは届かない。最終的に、計画が破綻したクレイが生き残り、半ば安堵しながらも「余計なことを…」と、呟く様を描くというのは、本作が単なるクリエイター讃歌ではなく、資本がクリエイターと夢を共有することをも、求めている証左であろう。そのどれが欠けても、成り立たないものなのだ。
さて、動画配信者、とりわけユーチューバーというのは、その多くが個人だが、最近は事務所とマネジメント契約を結ぶ人も多いようだ。特に、VTuber(アバターを使って配信する、バーチャルユーチューバー)の世界では、アイドルが芸能事務所に所属するのと同じように、大手の事務所と契約することが、一つの目標になっているそうだ。
そこにガロはいるのだろうか。クレイはその力を公正に使うのだろうか。そして、彼らのさらに上位にいるプラットフォーマー(YouTubeやTikTokのような企業)は、公益の利に資するコンテンツを生み出す手助けを行っているのだろうか。支配的シェアのプラットフォーマーには、そのような責任が生ずるとわたしは考えている。
念のための補足だが、『プロメア』はあくまでエンターテイメントであり、眉間に皺を寄せて観るような映画ではない。外連味のあるアクションと、息もつかせぬ超展開の連続が魅力の、とにかく楽しい作品だ。公開から時間が経っているということもあり、ネタバレありで書かせてもらったが、そうした映像的魅力の数々は、その目で見なければ分からない。また、音楽や声優陣の熱演も素晴らしい。未見の方は是非、ご覧になっていただきたい。
※本記事掲載時点、プライムビデオ見放題対象作品です。
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