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哲学とは「学ぶ」ことではなくて「考える」こと

出来上がった考え

池田晶子という文筆家の本を何故か図書館で手に取る。
コーナー上の分類は哲学となってた。
ソクラテスという人が哲学の起源らしい。
ただ、少し本も分厚く字も小さいので読む気が失せた。

何となく、ただ、何となく哲学というものにふと触れたくなった。
ソクラテスの本をと思ったがソクラテスとの対話形式の本があった。
その本を書いていたのが池田晶子という文筆家だった。
ただ、その本も分厚かったので隣にあった比較的よみ良さそうな
「知ることより考えること」を借りてみた。

普通、「学」という文字がつくと「学問」をイメージする。
学問は学ぶということをしがちだ。
つまり、誰か先人たちが説いた論理や実証した結果を知ること。
それは教科書や何かを調べることで得る知識であり
誰かの出来上がった考えを知るこということになる。

しかし、著者は哲学とは学問ではないと言い切る
彼女は、哲学者と哲学者ではない人とを分けている。
哲学者じゃない人は学ぶ人であり
哲学者は考える人のことをいう

哲学に「学」がついているから学ぶ対象と勘違いする。
著者曰く、存在を考えることが哲学ということ。
生まれて、生きて、死ぬという私たちの存在を考えること。
と私は捉えた。

女性らしい柔らかさでエッセイとして哲学なる物を考えさせてくれる
普段使いの言葉で日常に溢れた事柄を通して
彼女独特の感性で哲学することに導いてくれる。

やさしいからと言って、深みがないということでなく
難しくないから、哲学的に浅いということではない

むしろ、通常の哲学書よりは深く考えさせるものになっている。

という私は、それほど哲学書を読んでるわけではない。
筆者の本を読むと、彼女はありとあらゆるものを読んでいる。
哲学の本の知識は誰よりもあるということが推察できる。

それでいながら、下手に哲学書を読むよりは
読まずに、生まれ、生き、死ぬその存在とは何かを考える
そのこと自体が哲学だと言い切る。

哲学者の本を読んで研究する人は哲学者ではい
ソクラテスの考えたことをどう解釈するかでなく
自分自身の存在自体を考えることが哲学者だという。

「私」とは何か?
「渡辺何某」というのは記号だ
「丸々に勤めている課長」というのも同じ。
何でもない「私」とは何なのか?

その「私」という「存在」は何かということを考え抜く
その時に「こうとしかできない自分」ということに気づく
それとともに「自分の生き方」が明瞭になってくる。

筆者は哲学する「こうとしか出来ない自分」を生きた
46歳という短いか長いかわからないけども
その「生」は誰よりも色こく充実したものではなかったかと思う

彼女の齢を超えた初老の自分と照らし合わせると
彼女の様に「考える」生き方をしてきてはいない

日本の教育や社会のせいにするわけではないけど
実際に教育は「考える」のではなく「出来上がった考え」を
学び、答え合わせをし、正誤を確認する様に出来ている
会社でも「考えろ」とは言われるけども「出来上がった考え」の
組み合わせをするのが「考える」ことだ。

そこには、社会のパズルにハマるように「考える」自分がいる。
考えているのかどうかもわからない
むしろ、「出来上がった考え」に慣らされているのかも

そこには、「こうとしか出来ない自分」ではなく
「社会に合わせようとする自分」がいる
「出来ないのに出来ようとする自分」がいる
「自分ではない何かになろうとする自分」がいる

彼女の言葉をたどりながら
「そういう自分」に気付かされる。
長らく、自分じゃない自分になろうと努力?してきた結果
本来の自分ではない「何か」になってしまった自分に気づく

「考える」ことしかできなかった著者は
社会的には哲学者に分類されるが
本人は文筆家と言っていた
それでも、それは社会的に便宜上そう言ってただけだろう

彼女は「こうとしかできない自分」を受け入れ
こうとしかできない自分の生き方を貫くしかなく
それを生業として生きたのだろう

他の誰かに分類される「何か」ではなく
「自分」にしかなれない「何か」になって
「自分」の生を生きたのだろうと思う

彼女の言葉に導かれながら哲学の本質を知ることで
「こうとしかできない自分」というのを見つけてみよう

そのために「存在」というものを考え抜く
「私」とは「何なのか」?
絶対的な「存在」としての「私」を自覚する

相対的な「存在」でしかない「私」から離れる

「こうとしか生きられない自分」になりたいと思わせる

そんないい出会いだった

図書館をふらりと歩きながら
何となく手にとった本に
深く考えさせられたことに感謝したい


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