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お金の正体を深掘ると執着しなくなる。

お金の魔力に取り憑かれる人々。

 代々資産家の家庭であれば、お金を上手に扱うために、親が子に金融教育を施し、結果として資産家であり続ける(もちろん、そうならない家庭もある)が、平均的な日本人の、お世辞にも高いとはいえない金融リテラシー程度しか持ち合わせていない家庭だと、お金の扱い方を知らないまま成人を迎える。

 そうなると、出来ることの幅が広がる成人になってから騙されたり、資金繰りが苦しくなった際に、一か八かの大博打に打って出た結果、借金漬けになって時には命すら投げてしまう。

 今になって高校で金融教育を盛り込む運びとなっているが、大学の教職課程から教員になった人たち全員が、実学としての金融教育が施せるだけの知識や経験を有しているとは思えず、学校教育で盛り込まれたことを過信すべきではないし、家庭で教える必要がないかは別問題なのが、正直なところである。

 そもそも貸与方奨学金を安易な気持ちで借りて、借金を背負って社会に出る重みを理解している教職員が多数派なら、貸与方奨学金利用者の9%が延滞する事態にはならない気がする。

 人生山あり谷あり。人はいつ、どんな苦難に見舞われるか分からない。私は20代半ばで大病を患い入院と手術をした際、給与所得が激減したが、無借金に拘り高卒で社会に出て、大卒と比べて4年も早く資産形成に取り掛かったことから、資金繰りに窮することはなかった。

 しかし、奨学金を借りて大学を出ていた時のことを考えると、社会に出て何年も経っていない時期でゾッとする。高額療養費制度や限度額適用認定証があるとはいえ、入院すれば退院時に1ヶ月につき10万円前後の精算は必要で、保険に加入したところで、保険金が着金するまでの間は、自前で立て替えなければならない。

 おまけに入院中は、ただでさえ薄給な賃金が更に減額され、給与所得ではとても足りない。そんな中でも奨学金という名の借金は返さなければならない。

 何かの拍子に所得が途絶えたらゲームオーバーするような、綱渡り的な人生設計に何の疑問を持たず、学士を得るために奨学金を借りるのが、さも当たり前とする風潮の、学歴至上主義社会は不健全である。

 キャッシュが滞ったり、社会の枠組みから外れた、経済的に困窮した弱者に対して、自己責任論を振りかざせば追い詰められ、短絡的な思考に陥りやすい。

 それが昨今の強盗やP活の温床となり、お金の魔力に取り憑かれて、非合法的な手段も躊躇しない人が増加しているのではないかとすら思える。せっかく先進国に生まれ、世界的にも恵まれた環境に身を置いている筈なのに、お金のために悪事を働く輩が蔓延る社会ほど悲しいものはない。

 私のように安易に他人を信じず、穿った見方をしては、真意を見つけ出そうとする捻くれ者であれば自分なりに答えを探し、お金に対する価値観を独自に形成することができるが、社会では少数派だろう。

銀行は無からお金をパッと生み出す。

 そんな魔物が潜んでいるお金の正体は「信用」である。いわゆる不換紙幣と呼ばれているもので、政府の信用を担保に成り立っている。

 現金はあくまでも物々交換の煩わしさを解消するための、価値を数値化する指標。かつ保存ができて、持ち運びが容易な「道具」に過ぎず、お金そのものに意味はない。個人的な肌感覚としてお金は「無」そのもので、裏付けとなる信用は「幽霊」に近い。

 ここまでは金本位制の歴史や、貨幣経済の仕組みを学んだことがある人なら聞いたことのある内容だと思う。では、そのお金が、どうやって作り出されるのかまで考えたことがあるだろうか。造幣局と日本銀行は、貨幣経済に必要な道具の製造工場に過ぎない。

 答えは、銀行がまるで錬金術の如く、どこからともなくパッと生み出す。初めて下記に引用している文を読んだ時、理解が追いつかなかった。

”銀行があまりにも簡単にお金を作り出すことができて、恐ろしくなるといった経済学者もいる。本当にそうだ。ペン一本で、あるいはキーボードを2、3度叩くだけでお金を生み出せる魔法の力が金融機関にあると考えるとぞっとしてしまう。その力に疑問を持つのは当たり前だ。何もないところから価値が生まれるなんて、奇妙なことだから。”

父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。
|ヤニス・バルファキス (著)・関 美和 (訳)

信用創造の功罪。

 端的に言えば、銀行で3,000万円の住宅ローンを借りる。35年掛けて利子をつけて完済する前提で、今この場の支払いを、銀行に肩代わりして貰う。

 この時、不動産会社の口座に振り込まれる3,000万円は、みんなが銀行に預けているお金の総量から捻出した訳ではなく、銀行がパソコンのキーボードを叩いて、不動産会社の口座に3,000万と数字を加算するだけで、銀行の預金残高は減らない。この錬金術の如くパッと生み出す状態を信用創造という。

 もちろん無限にできる訳ではなく、支払準備率たるものが定められてはいるが、これが10%の場合、銀行は逆数の10倍は信用創造によって残高を膨らませることができるため、仮に1億円の残高があれば、9億円はパッと生み出せる理屈である。

 本当に奇妙だが、時間軸を超長期で考えれば、35年後に銀行側は信用創造で生み出した3,000万円を回収できる上、身銭を切ることなく利子のプラス分が収益となるから基本的には問題ない。

 それどころか、個人はコツコツ貯めた時よりも35年早く住宅を購入でき、不動産会社は収入になるため、経済を回すには大切な要素だと言える。

 とはいえ、基本的には問題ないと含みがある表現なのは、想定通りに35年後に完済できればの話だからである。返済が滞ると銀行は資金繰りが悪化して最悪破綻する。一箇所が潰れると、信用創造で膨らんだお金が更に焦げつき、連鎖倒産の危機に直面する。これがリーマンショックの本質である。

 それにより、商品の在庫はある。それを欲している人も居る。支払うだけのお金もある。それにも関わらず、市場経済がパニックになったことで、欲しい人の手元に商品が届かないという、物々交換なら起こり得ない事態にまで発展したのは信用創造の功罪に他ならない。

 我々は何かとお金の多寡で一喜一憂しがちだが、銀行はそれよりも遥かに多額なお金を、パソコンを操作するだけでパッと生み出してしまう。そんなものを増やそうと、賃金労働者として必死になって人生の時間を切り売りしたり、時には非合法な手段にまで手を染めるなんて、アホらしいと思わないだろうか。

 お金に困らない人生を送りたい一心で、お金について学び続けた結果、お金以外のものを求めるようになったのは、何とも皮肉であるが、そんなお金に執着しない人が増えると、社会は多少なりとも良い方向に進みそうな気がする。


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