「働く」「はたらく」を考えています
最近、あらためて「はたらく」「働く」について考えています。
理由の一つは、久しぶりに読み返した本の一節があたらめてハートに突き刺さったからです。
本来あるべき金融教育とは、働くことに価値があり、その価値ある行動の延長に企業の利益があり、その利益の将来期待が会社の価値を形成していると理解することです。
- 投資家が「お金」よりも大切にしていること/著・藤野英人さん 151ページ
もう一つの理由は、気がつけばアラフィフ。ちょっと時間軸を長めにとった時、私自身はどうはたらきたいのかを考えたい。そう思ったからです。
昨日noteに投稿された、長田涼さんの記事です。
こちらの記事にコメントさせてもらったのですが、東京等の都市圏では、
「働く」=「(生活の糧を)稼ぐ」
1対1の関係になっている、その関係がドンドン強くなっているのでは、ということでした。今年の環境激変でそれに変化が起きる可能性は十分にありそうですけど。
そもそもの話、
「働く」「はたらく」って、「稼ぐ」だけではないと思うんですよね。
「はたらく」に関してよく言われているお話ですが、Shimoyamaさんのブログで見つけました。
働くことは、傍(はた)を楽にすること。つまり、他人の役に立つことが働くことの意味であって、お金はその感謝の対価です。
https://www.shimoshun.com/entry/2017/08/08/175519
傍(はた)とは、周囲の人たち、日々暮らす地域、環境、自分の周りを取り巻くもの。楽とは、何かしらの役に立つ、楽しくなる、快適に感じる、そんな色々だと思います。
マンションの理事会で役員を務める、子供が通う学校でPTA活動に取り組む、これらの仕事も「働く」「はたらく」だと思うのです。この「働き」で生活の糧は稼げないけれど、きっと「はたをらく」にしていると思うのです。
思い出したのが、5年前に教えてもらった「カセギ」と「ツトメ」という考え方です。
江戸時代には「カセギ」がいいからといって一人前とはみなされなかった。村落共同体で自然災害に遭ったり、伝染病がはやったり、はたまたお祭りがあったりしたときに、一肌脱いで「ツトメ」を果たして初めて一人前とみなされた。
でも今日、社会人として「カセギ」を得ること、「ツトメ」を果たすことは、1人1人のなかで必ずしも両立していない。
http://renny.jugem.jp/?eid=4129
「働く」「はたらく」の中には、生活の糧のための「カセグ」と、周囲、もっと広くは社会のための「ツトメル」という要素が含まれているのだと思います。
最初に出てきた藤野さんの本の一節。「働くことに価値があり」とされていますが、この中で「働く=カセグ」という図式で伝えることは不味いのかもしれませんね。
若い頃、資産が十分に積み上がっていない間は「カセグ」に重きを置くことは当然だと思います。しかし、その時期から「カセグ」一辺倒、「ツトメル」のことを一切意識することがなかったら、また、「ツトメル」に触れる機会がなかったら、一生、「カセグ」「カセグ」「カセグ」になってしまいはしないだろうか、とも。もちろん、それは人それぞれなわけで他人があれこれ言うものでもありません。
私自身は、自分が得意なこと、好きなことを通じて、どんな「ツトメ」を果たすことで、はたをらくに出来るだろうか、ということを考え始めています。
こちらにも書きましたが、「働く」と「投資」はとても近い。というよりも、「働く」それ自体が「投資」だとも言えます。「カセギ」と「ツトメ」の枠組みを使うと、会社への投資を通じて「カセギ」も「ツトメ」も果たすことだって出来ます。どんな投資をしたいのか、と、どんな風に働きたいか、とは、とても似てくるのだと思います。人それぞれの価値観がそこに表れているようにも思われます。
じっくりと時間を掛けて、私自身の「ツトメ」を探求していくつもりです。
楽しい過程になるといいなあ。