自己分析的回顧録:私にとって休むことは大変である。
お疲れ様です。
”大伴旅人”です。
今日は無職になってたくさん時間ができた時に気づいた
「休むことの難しさ」について詳述していきたいと思います。
まず私自身のパーソナリティを簡単に述べさせていただくと
上記のような要素が挙げられると思います。
真面目で勉強熱心でいわゆる優等生と分類されるような人生を歩んできたと思います。
そんな中、無職になり有り余る時間の中で、私は休むことの難しさにぶちあたったのです。
「忙しい=正しい」と思っていた
無職になり何もしない時間を過ごしていると
このようなことを感じました。
「自分は何をしているんだろう」
「何も社会的なことをしていないな」
「何かしなければ…」
休むために無職になったはずなのに、頭は全然休めていないわけです。
これは精神衛生上あまりよろしくありません。
対応策は後ほど提案しますが、まずは何も考えない時間を作ることや休むことは今自分にとって必要だということを言い聞かせましょう。
ここで自分のことを深く内省してみますと
根底に「忙しい=正しい」という考えがあることに気づきました。
私は幼いころから週6~7日ほど習い事を続けていました。
「週に1回OFFがある」といった状態が当たり前だったわけです。
常日頃から「やるべきことに埋もれた生活」というものを送り続けており
むしろそこに居心地のよさすら感じていました。
しかし、学生の頃は勉強や部活や習い事など無条件でやるべきことに没頭していましたが、社会人になり1度それらを断ち、無職になってみると「やるべきこと」など無くなってしまっていたのです。
休み始めてから結構な期間はこのモヤモヤを0にすることはできませんでした。
学生の頃はあえて「やるべきことに埋もれた生活」を送ることで、何も無い自分という存在から目を背けたかったのかもしれません。
今後の人生はどのようなものになるか想像はつきませんが
どうやら「忙しい=正しい」はあまり正しくないかもしれません。
全て無になった自分を見つめ直してみた結果の学びでした。
休んで気づいた「やりたいことのなさ」について
有り余る時間の中で葛藤していくと以下のようなことが分かりました。
葛藤していて明確な答えが得られたというよりは
新たな疑問や考えが浮かんだという方がしっくりきますが
無職の期間を経て「自分のことを良く知らなかった」という根本的なことに気づかされました。
忙しさに悩殺された生活を送っていれば、必然的に自分との対話の時間は減り、心の本音というものには気づけなくなっていくでしょう。
当たり前と言えば当たり前のことです。
ただ、1番の問題点は「本当にやりたいことは何だったのか分からない」という点です。
真面目で向上心が強い優等生タイプの私は「やるべきことや」「やりたいこと」が行動原理にあったのです。
今までは仮説を立ててでも、このような行動原理を決めて猪突猛進していたわけです。
会社で限界まで働いて、休まなければいけない状態であるのに
私はこの後の人生をどのような軸をもって生きていくべきなのか悩んでしまったのです。
そんな時、久々に飲みに行った兄弟に言われた言葉が私を救いました。
1年ほど前の自分に聞かせたら湯気を出して起こりそうな文面ですが
無職の自分にはスッと入ってくる言葉でした。
「やりたいことがない人は時間を浪費している」
「志が大事だ」
「世の為、人の為」
今までは上記のような言葉を信じていました。
振り返ってみればこれは私にとっての理想像であり、「こうありたい」という気持ちが私を突き動かしていました。
しかし、それは同時に「無職で何もない自分」を「理想像からかけ離れたダメなやつ」と攻撃してしまっていたのです。
それが兄弟の言葉によって
「やりたいことがなくてもいいんだ。」と思えるようになったのです。
胸のつっかえがとれた気がしました。
もし今後やりたいことができれば熱中して行けば良いと思います。
しかし無理にやりたいことを作らなくても大丈夫なのです。
まとめ
さて今回は私の休むことの難しさについて詳述しました。
「生きがい」や「やりがい」を行動原理にしている人はそれを失った時にどうしていいか分からなくなることがあると思います。
そんな時は「長い人生の中、やりたいことが無い時期もある」くらいに考えてみてはどうでしょうか。
少なくともその言葉で救われた筆者がいますので、試してみる価値はあるかと思います。
休んでみるとそれはそれで苦労したり悩んだりすることもあるもんです。
ただそれは休んだ人にしかわからないものなのです。
本日もお読みいただきありがとうございました。
”大伴旅人”
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