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音読・黙読・速読(その3)

 シリーズ「音読・黙読・速読」の最終回です。

「音読・黙読・速読(その1)」
「音読・黙読・速読(その2)」


◆センテンスが長くて読みにくくて音読しにくいけど素晴らしい文章


 まず、前回に取りあげた文章を再び引用します。なお、あえてお読みになるには及びません。ざっと目をとおすだけでかまいません。

(Ⅰ)

 祖母の部屋は、私の部屋のように直接海に面してはいないが、三つの異なった方角から、即ち堤防の一角と、中庭と、野原とから、そとの明りを受けるようになっており、かざりつけも私の部屋と違って、金銀の細線を配し薔薇色の花模様を刺繍した何脚かの肱掛椅子があり、そうした装飾からは、気持ちのいい、すがすがしい匂いが、発散しているように思われ、部屋にはいるときにいつもそれが感じられるのだった。
(マルセル・プルースト『花咲く乙女たち』井上究一郎訳)(三島由紀夫『文章読本』第七章)より・以下同じ)

(Ⅱ)

 そして、一日のさまざまな時刻から集まってきたかのように、異なった向きからはいってくるそうしたさまざまな明りは、壁の角をなくしてしまい、ガラス戸棚にうつる波打際の反射と並んで、箪笥の上に、野道の草花を束ねたような色どりの美しい休憩祭壇を置き、いまにも再び飛び立とうとする光線の、ふるえながらたたまれた温かい翼を、内側にそっとやすませ、太陽が葡萄蔓のからんだように縁取っている小さい中庭の窓のまえの、田舎風の四角な絨毯を温泉風呂のように温かくし、肱掛椅子からその花模様をちらした絹をはがしたり飾り紐を取りはずしたりするように見せながら、家具の装飾の魅力や複雑さを却って増すのであるが、丁度そんな時刻に、散歩の仕度の着換えのまえに一寸横切るその部屋は、外光のさまざまな色合を分解するプリズムのようでもあり、私の味わおうとしているその日の甘い花の蜜が、酔わすような香気を放ちながら、溶解し、飛び散るのがまざまざと目に見える蜂蜜の巣のようでもあり、銀の光線と薔薇の花びらとのふるえおののく鼓動のなかに溶け入ろうとしている希望の花園のようでもあった。

*節のある竹のような文章

 上で見た、井上究一郎訳によるマルセル・プルーストの文章である(Ⅰ)と(Ⅱ)のセンテンスを図式化してみましょう。

(Ⅰ) 

    │
    │
    │
    │

(Ⅱ) 

    └│
    │┘
    └│
    │

 上の図はあくまでもイメージです。

        *

(Ⅰ)は「│」が単位になって、すっすっと下に流れていきます。切れ目というか節で休むことができます。

 節のある竹みたいなのです。

 長くなれば、読みにくくなるのは当然でしょう。日本語の文章は、本来はこういう竹のような構造をしているのです。すごく簡単に言うと、

*主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部……

というふうに、並んでいくのです。もっと簡略化して言うなら、

*「AがBだ、そしてCがDした、それで、EがFなのよ、で、GはHだから、IはJしちゃって、んでもって、KがLなわけ、それだけじゃないのよ……」

みたいな延々としたつながりが可能だと言えます。

*幹から枝が分かれている文章

 一方(Ⅱ)は、単位であり幹でもある「│」の左や右に、「└」や「┘」というごてごてした飾り――つまり枝(大枝・小枝)や葉――がくっついているので、流れにくいのです。

 幹から枝が分かれている文章です。

 枝がさらに分かれていく場合もあり得ます。こうなるとかなり複雑で読みにくくなりますが、たとえば英語やフランス語の文章ではあります。

 明治時代になり、さかんに西洋の文物が流入し、それにともなって「翻訳調」の日本語が流通するようになったことが、こうしたごてごてした文章の流行や普及につながったのかもしれません。

 または、明治どころか、そのずっと前から続いている漢文の読み下しによる、漢語調の言い回しが、理屈っぽくて枝葉の茂った日本語の文章として存在していたらしいことが関係あるのかもしれません。

 この辺の事情については、不勉強なので曖昧な言い方になりましたことをお詫び申し上げます。

*日本語の生理に沿った文章

 以下の文は、黙読しやすいうえに、音読もしやすく、それを聞いても理解しやすいと思います。

 あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖ふすまをあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉でんぷんが下に沈み、少しずつ上澄うわずみが出来て、やっと疲れて眼がさめる。朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。いやだ。いやだ。
(太宰治『女生徒』・青空文庫より)

 以上は、太宰治の小説『女生徒』の冒頭なのですが、比較的読みやすいのではないでしょうか。

 なぜ読みやすいのでしょう?

 話し言葉を書き写したような文体だからかもしれません。

 いわば「天然の音読」である「話し言葉」を書き写して体裁を整えた文章なら(整理し編集したという意味です、話し言葉をそのまま書き写しても読みやすい文章になるとは限りません)、音読しやすいだろうと想像できます。いわゆる「口述筆記」がそうでしょう。

 とは言え、太宰はこれを小説として書いたわけですから、実際の談話を書き取った文章とは言えそうもありません。

 この文章をよく見ると、さきほど述べた(Ⅰ)のように、竹の節で切れているリズムが読みやすさにつながっているようです。

*主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部 ⇒ 主部+述部……

 というか、そもそも日本語の話し言葉は、「主部+述部」がひとつの単位となって、延々と続くリズムになっています。

 だから、『女生徒』は読みやすいし音読しやすいし聞きやすいのです。日本語の生理に沿った、つまり自然なリズムなのだと言えます。

     *

 ところで、冒頭で紹介した井上究一郎訳のプルーストの文章が読みにくいのは(Ⅱ)のように枝葉が茂って飾りが多いからにほかなりません。しかも、プルースト小説の文章では飾りがこれでもかというふうに異常に多いのです。

 その飾りを律儀に日本語に訳した井上訳は日本語特有の生理に逆らって作文をしたとも言えるでしょう。

 センテンスが長くて、込み入っていて、読みにくくて、不自然な日本語であって、音読しにくい。でも、私は井上究一郎訳のマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は素晴らしい文章だと思います。大好きです。

*音読に適さない文章

 なお、音読に適さない文章として、約物を多用した文章を挙げるべきなのですがかなり長くなりそうなので、興味のある方は以下の引用文がある「立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)」をお読み願います。

 約物とは、それを声にすることのできない徹底して見るためだけにそこに「ある」記号であり文字なのです。約物とは音声化されない影とか、声として反映されない言葉の影と言えます。
 趣も意味あいもまったく異なりますが、井上究一郎訳のマルセル・プルースト作『失われた時を求めて』を音読する人がいないのと同様に、蓮實重彥を音読する人はいないだろうと想像します。
(拙文「立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)」より)

 あと、これも。タイトルからして音読不能であることが、お分かりになると思います。冒頭に並んでいるフレーズを音読してみると体感できるでしょう。

      *

 また、掛詞や駄洒落や言葉の遊びの多い文章も音読に適しません。

 例として、以下の拙文「「かける」と「かける」(かける、かかる・03)」と「異物を定義する(異物について・01)」がありますので、万が一興味のある方がいらっしゃいましたら、ご覧ください。ざっと目をとおすだけで音読に適さないことが体感できるはずです。

 以上、音読に適さない文章をここでは「音読不能文」と呼んでいます。なお、音読に適さない文章について、ひとさまの文章を取りあげるのは失礼だと思いますので、手前味噌を並べる形になり恐縮ですが、例として拙文を挙げております。

*大和言葉(和語)を多用した文章

 くり返しますが、太宰の小説が音読して心地よいのは、日本語のリズムが身についていた作家の文章だからではないでしょうか。

(Ⅰ) 

    │
    │
    │
    │

 しかも、読点「、」が多いのでさらに読みやすいと言えるでしょうが、あまり頻繁に読点があると読みにくくなる場合もあります。

 あと、目につくのは大和言葉(和語)です。この文章では和語を多用しています。

 大和言葉とは、ものすごく簡単に言うと、漢字で音読みしていない言葉です。一方で、音読みしている言葉は、漢語系の言葉ですね。

 漢字を使うと黙読しやすいのは、「音読・黙読・速読(その1)」で述べたとおりです。

 どちらがいい悪いの問題ではありません。大和言葉は「うたう・唱う・詠う・謡う・歌う・謳う」のに適し、漢語系の言葉は「論じる」や「語る」さいに便利だ、とは言えると思います。

 太宰のこの小説の文章は、音読もしやすく、またその音読を聞いた人も容易に内容を理解し、その情景を思い浮かべることができるのではないでしょうか。

◆耳に入りやすい文章


 目に入りやすい文章、つまり「音読・黙読・速読(その1)」で述べた黙読しやすい文章があるように、「耳に入りやすい言葉」はあると思います。

 朗読されることを意識した散文や詩、ラジオやテレビのニュース原稿や語りの原稿、そして歌詞がそうでしょう。

 これらは、プロの手によって考案および制作された、然るべきノウハウやマニュアルがあり、それに添う形で耳に入りやすいように作られているからです。

 大切なのは、文章が作られたものだということです。作られた文章が「作品」だとも言えます。インスピレーションが湧いたから文章も、それと同時に湧いたのではありません(詩でもビジネス文書でも小説でも宣伝文でも歌詞でも事情は同じです)。

 いじくりまわして作り上げた、人工物です。パーツは言葉であり文字にほかなりません。言葉と文字を組み合わせて並べたものです。始まりと途中と終わりがある線状の列です。

 あと、ここで忘れてはならないのは、歌詞が売り物つまり商品であることです(もちろん歌詞だけでなく、詩もビジネス文書も小説も実用文も宣伝文も商品になり得ます、作品であり商品なのです、商品ですから編集者や校正者や権威者やスポンサーや上司などの手が加わるのが普通です)。

 たくさんのお金をかけて、一か八かの勝負をするのです。歌詞には周到な準備と工夫がなされているはずです。

上を向いて歩こう
涙がこぼれないように

 私は「上を向いて歩こう」(歌:坂本九・作詞:永六輔・作曲:中村八大)が大好きです。

 永六輔さんの詩はいいですね。シンプルな言葉で素朴な感情をうたう。それがある意味深い。驚くのは、大和言葉(和語)しか使われていないことです。大和言葉大好き人間の私は感動してしまいます。

 だいたいにおいて日本語の歌詞には大和言葉がきわめて多く使われています。歌謡曲には詳しくないので分かりませんが、そういうことになっているのでしょう。作詞講座などでは、大和言葉をベースに作詞しなさいと教えているとしか思えません。

 漢語系の言葉だと、同音異義語が多くて聞き間違いやすいし、頭で理解するようなところがあって、大和言葉のようにお腹に来るというか体に染み入る語感に乏しいのかなあと勝手に思っています。

「あの人妊娠したんだって」とか「ご懐妊です」よりも、「あの人赤ちゃんができたんだって」とか「おめでたです」のほうが、ぴんと来ます。前者だと「は?」と一瞬理解が遅れるのに対し、後者だとすっと入ってきます。個人の感想ですけど。

 ここでお断りしますが、大和言葉だけを称揚し、漢語批判をしているわけではありません。ここでは大和言葉が耳に入りやすい、聞き間違いが少ないという特徴について述べているだけです。

 漢語つまり、からことばから来た言葉も、日本語であり、私たちの血肉になっています。

 つまり、漢文が日本において公用文書として用いられていたこと、そして漢文の読み下しから生まれた漢語が、大和言葉と並んで日本語を形成していることは否定できないという意味です。日本も、その首都である東京も漢字を音読みしていることを思い出しましょう。

 あと日本語の歌詞には英語や英語もどきも多いです。

 これは漢語系の言葉と違って、同音異義語の心配は要らないし、洒落た感じを醸しだすのに便利なツールだという気がします。だから、使うのでしょうね。たぶん、ですけど。

 いずれにせよ、大和言葉でこれだけの内容と深さのある思いと感情をつづることができるのです。

 個人的な感想で恐縮ですが、大和言葉でつづられた言葉は腑に落ちるというか、頭だけでなく体に染み入ってくるのです。

     *

あなたの燃える手で
あたしを抱きしめて

 岩谷時子さんによる訳詞も好きです。

 たとえば、越路吹雪さんが歌って大ヒットした「愛の讃歌」ですけど、元がフランス語であっても、大和言葉尽くしの日本語の詩に仕上がっています。なお、「愛」と「讃歌」は音読みですが、これも日本語です。いとしい・愛おしい日本語です。

 ところで、「(私はあなたが)好きです・好き(だよ・やねん)」と「(私はあなたを)愛しています・愛してる(よ)」は微妙に違う気がしませんか。

 個人的な感想を言うと、私は「愛している」は照れくさくて絶対に使えません。口にすると嘘っぽくも感じます、なぜか。ただし書くことならできそうです。

 一方の「好き」は照れくさいけど、すっと口にできそうです。というより、漏れ出る感じがします。大和言葉漏れ出る説を提唱したいくらいです。「好き」に比べて「愛している」は絞り出さないと出ない気がします。歯磨き粉チューブの最後を絞り出すように。

◆長い時間と長い空間


 三回にわたった「音読・黙読・速読」という連載は三つの記事を合わせると「19,562文字」だそうです。

 私が数えたわけではなく、画面の右上に表示された数字が教えてくれたのです。長くて読みにくい文章にお付き合いくださり、ありがとうございました。

 それにしても、あのマルセル・プルーストの文章とセンテンスは長かったですね。

 時空という言い方がありますが、「長い」という言葉が時間と空間の両方で使われているのが不思議と言えば不思議です。

 私たちがふと「長いなあ」とか「ああ、長かった」と口にするとき、その「長い」は時間の長さなのでしょうか、それとも空間の長さなのでしょうか? または、その両方を込めての思いなのでしょうか?

 小説には始まりと途中と終わりがあります。ということは、最初の一文字や最初の一語があって、最後の一文字(約物を含む)や最後の一語があり、そのあいだに直線状の文字列が連なっているという理屈になるはずです。

 その直線の上で、私たちはああでもないこうでもない、ああだこうだと迷いながら読むわけです。長ければ長いほど迷うでしょう。

 直線上で迷うというわけです。直線状の小説、文書、物語、詩、俳句……。いや、短くても大いに迷うことがありそうです。

 人間の一生という時間を直線状あるいは線状に見なすなら、最初の一瞬と最期の一瞬のあいだを迷いながら生きるのかもしれません。いや、長くても短くても、最初と最期のあいだの一瞬一瞬が迷いの連続にちがいありません。人は圧倒的な偶然の支配する「掛け=懸け=駆け=賭け」の中に放り込まれているのですから、たぶん。

 たとえば源氏物語を、この画面に表示されている大きさの活字で文字列にしたら、どれくらいの距離になるのでしょう? 地球を何周かしたり、月に届くまでの長さになるのでしょうか?

 その長さを私たちの視線は、どれくらいの時間を掛けてたどることになるのでしょう? 

 どんな長い小説にも最初の一文字があり、最後の一文字があります。

 マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』に話を戻しますが、あの長い長い小説が、 Longtemps (英訳では「For a long time」)で始まって、 le Temps.(英語では「Time」) で終わっているのも不思議と言えば不思議に感じられます。

 長い間、長い時間、とき、あいだ、時間。

 この不思議という思いを大切に持ち続けたいと思います。

     *

 時を経て 迷い続ける 文字の列

 待ちわびて 声を出さない 文字にらむ

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