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相手の幻想に付きあう快感
【注意:この記事にはネタバレがあります。】
人見知りの人違い
人の顔を覚えるのが苦手な私は人違いをよくするようです。たまにされることもありますが、するほうが多い気がします。
いま「ようです」、「気がします」と書いたのは、確かめようがない場合がほとんどだからです。
自分が人違いをしているらしいと思っても、本当にそれが人違いなのかを確認するためには、そして自分が人違いをされているらしいと感じても、本当にされているのかを知るためには、相手と話したり、その人とかかわらなければなりません。
私は人との交際がきょくたんに薄い人間なだけでなく、きょくたんに人見知りなので、人違いを(つまり人違いしたのかとされたのかを)確認できないままに相手と別れることが圧倒的に多い気がします。
やっぱり「気がします」という話になりました。残念と言えば残念です。
*
先日のことですが、ドラッグストアでレジへの列に並んだところ、列の前のほうにいた女性から笑顔で会釈されました。見たことのない人です。こういう場合には私は無視せずに、会釈をかえします。
その人はレジで会計を済ませたあとに、私にむかってじつに丁寧なお辞儀をしてお店から出て行きました。
私は人違いをされたのでしょうか。それとも私のほうが、知っている人とは気づかずに、その人を「知らない人」として人違いをしたのでしょうか。それにしても素敵な笑顔の人でした。
分からないままのお別れでした。残念と言えば残念です。
いま、こうやって思いかえすと、一期一会の縁という言葉が浮かんで涙が出そうになりました。
人違いをする
人違いが主要なテーマであったり、サブテーマとしてつかわれている物語や小説はとても多いです。数えきれないほど多いのではないでしょうか。
説話や昔話や童話といった物語で人違いが出てくる話なんてたくさんありそうです。私がこれまでに読んだ小説でも多々ありますが、いま頭に浮かんだのは、川端康成の『掌の小説』に入っている「めずらしい人」です(最後に収録されている作品です)。
「今日はまためずらしい人に会ったよ。」
近ごろ、父は学校から帰ると、娘にそう言って、その日会った「めずらしい人」の話をすることが度重なった。三日目おきか、五日おきである。
(川端康成「めずらしい人」・『掌の小説』新潮文庫所収)
引用したのは冒頭ですが、川端は掌編もうまいですね。「めずらしい人」と括弧でくくられることで、読者の興味をたちまち惹きつけます。
めずらしい人に会うのはめずらしくはありませんが、それが度重なるとめずらしくないどころの話ではなくなります。
そのけっして普通ではない雰囲気と、けっして普通ではない出来事がこれから起こりそうな気配が、冒頭の三センテンスで読む人に伝わってきます。
ごめんなさい――。「人違いをする」というこの章の見出しが、掌編のネタバレになっています。
ごく短い小説ですので、ぜひお読みください。短いながら完成度の高い心理サスペンスに仕上がっていると私は思います。ストーリーとは直接には関係がないのですが、娘とは対照的な息子の描き方がいいアクセントになっていて好きです。
心理的などんでん返しもありますので、ぜひ――。
人違い、人間違い
人違いを人間違いとも言うそうです。私は人違いと言います。
ひとまちがい。
発音すると「ああ、人違いのことか」とすぐに分かるので、間違うことも勘違いすることもないでしょう。
人間違い。
こう書くと、見慣れないせいか、「にんげんちがい」と読んでしまって、「えっ、どういう意味?」なんて一瞬考えこみそうになります。ぼーっとしているときなんかに、そんな勘違いが起きそうです。字面が「人間嫌い」に似ていなくもないですし。
にんげん違い・人間ちがい――、なかなか含蓄のある言葉だと思わず感心してしまいました。
なお、「めずらしい人」では「人ちがい」と表記されています。この「○ちがい」という字面も、いろいろな言葉を思い起こしそうで興味深いです。
人違いに付きあう
道や乗り物の中や病院の待合室なんかで、知らない人に話しかけられる。人違いされていると感じながら、少しのあいだのことだから、まあいいかという感じで相手に合わせてしまうことが、私にはあります。
人のよさそうな人だと、よけいに相手の人違いにあわせてしまうようです。とはいうものの、私のように人の顔を覚えるのが苦手な人間は、こっちが相手の顔を忘れている可能性が高いので、注意しなければなりません。
これはぜったいに人違いされているな、と確信したうえで、あえてその人違いに付きあう。そんなことが私にはあります。
相手に恥をかかせたくないとか、かわいそうだとか、一生懸命に話している相手の気持ちや期待を裏切りたくないという心理が働くのかもしれません。
それだけではなく、相手の勘違いに合わせることが快感だったりすることもあります。じつは、そんな心理の描写が出てくる小説があるのです。
老婆から人違いされる
アパートの裏手の林の、夏草の繁みを掻き分けて老婆は出てきた。(p.172)
古井由吉の『妻隠』(『杳子・妻隠』新潮文庫・所収)は、このように始まります。
病み上がりの(高熱で一週間寝こんだのです)寿夫が、アパートの近くで、繁みからとつぜん出てきた老婆に話しかけられ、次のように尋ねられるのです。
「ヒロシ君、家にいる」
年寄りのくせに、どこで習い覚えてきたのか、若い仲間どうしのような、馴々しい物の言い方である。
「さあね、この家のもんじゃないから……」
素気なく答えたつもりで、寿夫の口調も思わず相手の馴々しさに染まっていた。
(p.174)
「染まっていた」とあるように、この寿夫は病み上がりのせいか、あるいはそういう性格からなのか、相手に合わせてしまうのです。
染まる、うつる、移る――伝染るんです。吉田戦車による漫画のタイトルみたいですが、この小説では「染まりやすい」寿夫が視点的人物となって話が進行します。
人違いされる快感
寿夫と老婆が立ち話をしているのは、寿夫の住むアパートとその隣にある家(ここは工務店の寮としてつかわれています)とのあいだの空間であり、どうやら老婆は寿夫を寮に住む若い男たちのひとりだと勘違いしているようなのです。
勘違いですから、厳密には人違いではありませんが、間違われているのは間違いありません(ややこしい言い方で、ごめんなさい)。
いずれにせよ、相手のなかに自分とは別の自分がいるのは確かでしょう。
*
高熱がひいたばかりの寿夫はいささかぼーっとしているのですが、そんな寿夫の顔色をうかがいながら、老婆が、隙のありそうな相手の心のなかに立ち入ろうとしているらしい描写がつづきます。
一癖ありそうな、ちょっとお茶目な雰囲気もある、おばあちゃんなのです。
そのどこかうさんくさい老婆を相手にしていた寿夫が、驚くべき心理をいだきます。私の大好きな箇所です。
(……)彼はふいに、見まちがえられていることに奇妙な喜びを覚えはじめた。自分のさまざまな有り得る分身が世間にはぐれて渡り歩いているのを見るような気持ちがした。そればかりか、声をかけてくれる人なら誰にでもすがりつきたくなるような不安さえ、ほのかに感じはじめた。
(p.178)
ここを読んださいに、私は江戸川乱歩の小説みたいだと思いました。乱歩の作品では、人違いというテーマと分身(双生児も含みます)がからんだぞくぞくするようなストーリーがよくあります。
そうそう、このパターンは川端康成の作品群でも多々見られます。いつか、乱歩と川端のこの種の小説を取り上げた記事を書きたいです。こういうのが私の大好物なのです。
自分ではない誰かになりたい
上の引用箇所にある「自分のさまざまな有り得る分身が世間にはぐれて渡り歩いている」という部分が私にはよく分かる気がします。
勘違いや見まちがいをしているらしい相手の幻想に付きあってみたい。相手のいだいている自分になってみたい。相手の目に映っている自分になってみたい。
いささか、あやうい心理ですが、私には理解できます。相手の勘違いに染まっていく寿夫に染まっていきそうになる自分がいます。
自分の空想や幻想は、ある意味で退屈なのです。自分のものですから、ありふれた風景でしかありません。
たまには違った心の風景を見てみたい、見るだけではなくその風景に染まり、そこに参加してみたいという心理です。
*
ある日とつぜん、誰かの空想や幻想に出くわす。ただの幻想ではなく、その幻想には自分がいるらしい。誰かの思いのなかで、主人公と言ってもいい自分がいるらしい。別の自分がいる。
そんな別の自分になってみたい。そんな「自分」を演じてみたい。そうした気持ちになることが私にはあります。よくあります。
自分の思いだけのなかで生きる人生は、味気ないし退屈なのです。
ただし誰かの幻想に染まって、ミイラ取りがミイラになる恐れもあるので要注意です。あ、これもネタバレ……。
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