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「物に立たれて」(「物に立たれて」を読む・01)

 ようやく涼しくなってきたので、古井由吉の小説の感想文を書きたいと思います。体調を考慮して、少しずつ作業を進めていきます。具体的には、一回の記事でのテーマを絞っていくつもりです。

 古井由吉の小説については、このアカウントを開設した初期のころには、集中的に記事を書いていました。

 古井由吉の作品の感想文を連載として投稿するのは久しぶりです。

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 引用するさいには、古井由吉作の『仮往生伝試文』(講談社文芸文庫)を使用します。読むのは「物に立たれて」という章です。


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*引用


 物に立たれて

 十二月二日、水曜日、晴れ。
 深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、ひょんな場所ところだろうと、商売柄、遠くから目に入るものだが、たまに、すぐ近くに来るまでその人影のまるで見えない客がある、とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。いま、そこに立ったのはないことは、気がついた時に一目でわかる、という。その辺の光線のぐあいや運転するほうの目のせいばかりでなく、服装や体格にもあまり関係なく、とにかく姿の見えにくい、そんな客はあるものだ、と。
 それでも早目に気がつけば車を寄せる、ぎりぎりになっても寄せられないことはないのだが、なんだか運転の呼吸が狂わされそうで、悪いけど通り過ぎてしまうこともある、と。
(古井由吉「物に立たれて」(『仮往生伝試文』・講談社文芸文庫所収)・p.259)

『仮往生伝試文』では各章が、説話をめぐっての文章と、日記体の文章に分かれています。「物に立たれて」は、いきなり日記体の文章で始まっているのですが、この始まり方をしているのはこの章だけです。

*「物に立たれて」


 文庫版では同じページに、本文よりもやや大きめの活字で「物に立たれて」というタイトルが見えます。

『仮往生伝試文』は連作という形で書かれた作品を集めたものです。目次を見ると、各タイトルが緩やかにつながっている印象も受けます。

 この「物に立たれて」というフレーズは、この章の「十二月六日、日曜日、雪のち曇。」で始まる文章(p.268)に二回出てきます。

「物に立たれたような、目つきをしたものだ。」、「物に立たれたように、自分が立つ。」というふうに、それぞれが段落の出だしの一文になっているのです。 

 とはいうものの、初めて読むときには、このタイトルしか目にできません。私はその初めて見た時の気持ちを大切にしたいのですが、その時の記憶はなく残念です。

 そんなわけで、p.268にこのフレーズが出てくる文脈をあえて無視しする形で、この「物に立たれて」という言葉から連想するものをすくい取ってみたいと思います。

*物が立つ


「立つ」という言葉は、古井由吉の文章では実によく出てきます。上の引用文でも二箇所に出ています。古井がドイツ語から訳した小説の訳文にもよく出てきます。

 たとえば、古井訳のロベルト・ムージル作『愛の完成』には、「物(たち)」が「立つ」という言い方と、「物(たち)」を主語にしたフレーズやセンテンスが目立ちます。一例を挙げます。

 ほとんど現実のものとは思えぬほどかすかではあるが、いかにもたしかなこの感じを、かすかにふるえる軸のように拠よりどころにして、さらにまた、この軸の支点をなす二人を拠りどころにして、部屋全体は立っていた。あたりの物たちは息をひそめ、壁にうつる光は黄金色のレースへと凝縮した。
(ロベルト・ムージル『愛の完成』(『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』所収・岩波書店・p.9・太文字は引用者による)

 無生物を主語にして「立つ」というのはドイツ語の慣用的な言い回しにも思えます。「立つ」に相当するドイツ語の stehen には、たとえば、物が立ち止まった状態で「ある」という意味で日常的にもちいられていると習った記憶があります。

・立つ・たつ、在る・ある

 そうだとすれば、上の「部屋全体は立っていた。」の「立っていた」「あった」の意味だと考えられます。それをあえて「立っていた」と古井は訳しているのです。

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 古井の小説だけでなくエッセイでも、物が立ち、物がそこにあるかたちで、登場人物(小説の場合です)や、古井(エッセイの場合です)に働きかけてくるという言葉の身振りが見られます。

 一種の「ともぶれ・共振」が起きるのです。

*物が立つ、物に立たれる


 そうした「立つ」物が人に働きかける状況がいちばんわかりやすく書かれている箇所を、おそらく古井の小説でいちばんよく知られた『杳子』から引用してみます。

 いつのまにか杳子は目の前に積まれた小さな岩の塔をしげしげと眺めていた。それが道しるべだということは、その時、彼女はすこしも意識しなかったという。どれも握りこぶしをふたつ合わせたぐらいの小さな丸い岩が、数えてみるとぜんぶで八つ、投げやりに積み重ねられて、いまにも傾いて倒れそうに立っている。その直立の無意味さに、彼女は長いこと眺めふけっていた。ところが眺めているうちに、その岩の塔が偶然な釣合いによってはなくて、ひとつひとつの岩が空にむかって伸び上がろうとする力によって、内側から支えられているように見えてきた。
(古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠』所収・新潮文庫・p.19・太文字は引用者による)

 上の引用文では、無生物である岩が「立っている」だけでなく、それとは反対に「伸び上がろうとする」というかたちで述べられています。

「立っている」も「伸び上がろうとする」も杳子の視点から見た記述になっていますが、前者は客観的描写寄りであり、後者は杳子が物である岩の「立っている」姿に働きかけられた結果としていだいている心象である点に注目したいです。

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 古井においては、「物が立つ」とき、しばしばその物が登場人物に働きかけるのです。

 これは、人から見ると「物に立たれている」ことにならないでしょうか? 

・立つ・たつ、在る・ある

・物が立つ、物に立たれる
・物が立っている(物がある)のを人が目にする 
⇒ 人はその物に働きかけられた気がする 
⇒ 人はその物に立たれている・物が(に)あられている・物が(に)あらわれている

(※「(物が)ある」を「(物が・に)あられている」といると言えばかなり変ですが、「(物が)立つ」を「(物に・が)立たれている」(これも変ではありますが)よりは変ではなさそうです。)

 私にはそんな気がします。

     *

・たつ・立つ、立たれる
・ある、あられる、あらわれる
・あらわれる・現れる・顕れる・表れる・著・露

「ともぶれ(共振)」です。共に振れると言っても、振れるのは人のほうなのですが(一方的で一方向的なのです)、この「振れる」は「震れる」、「触れる」、そして「狂れる」までいくことがあります。

 古井の小説における「物に働きかけられる」は、しばしばネガティブな結果に至りますが、なかには「物に祟られる」様相を帯びることさえあります。

・たつ・立つ、立たれる
・たたる・祟る、祟られる

 私にはそんな気がします。

     *

『杳子・妻隠』は、私の愛読書の一つです。

私の持っている二冊の文庫本のツーショット写真です。右側はカバーの色が全体に薄れ、背の上部は破れかけているし、中は書き込みだらけだし、本自体が破損して解体しかけています。 新しく買ったほうには、又吉直樹先生の推薦文入りの帯が付いています。

*物が立つ、人が立つ


『杳子』の最終章に当たる「八」の最後の場面を引用します。

 そう嘆いて、杳子は赤い光の中へ目を凝らした。彼はそばに行って右腕で杳子を包んで、杳子にならって表の景色を見つめた。家々の間をひとすじに遠ざかる細い道のむこうで、赤みをました秋の陽がせ細ったの上へ沈もうとしているところだった。地に立つ物がすべて半面を赤くあぶられて、濃い影を同じ方向にねっとりと流して、自然らしさと怪奇さの境い目に立って静まり返っていた。
「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」
 杳子が細く澄んだ声でつぶやいた。もうなかば独り言だった。彼の目にも、物の姿がふと一回限りの深い表情を帯びかけた。しかしそれ以上のものはつかめなかった。帰り道のことを考えはじめた彼の腕の下で、杳子の軀がおそらく彼の軀への嫌悪から、かすかな輪郭だけの感じに細っていった。
(古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠』所収・新潮文庫・pp.169-170・太文字は引用者による)

 ここでは、「地に立つ物がすべて半面を赤くあぶられて、濃い影を同じ方向にねっとりと流して、自然らしさと怪奇さの境い目に立って静まり返っていた。」だけでなく、「彼の目にも、物の姿がふと一回限りの深い表情を帯びかけた。」とあります。

 しかも、「杳子」も「彼」も立っています。物たちも、人から見た心象であるにしても、人たちも等しく立っているのです。

「今があたしの頂点みたい」という杳子の言葉がありますが、これは文字どおり「立つ」の「頂点」と言えないでしょうか。

 しっかり立たない限り、頂点にはいられません。ようやく立つことができたと杳子は実感し、それを口にしているのです。

 働きかける物たちも、働きかけられる人たちも、みんなして立っているという美しく不思議な終わり方をしています。

『杳子』における「立つ」については別の記事で書く予定でいますが、ここでは、小説のラストにおいて物が立ち、人が立つという光景というか展開だけを見ていたいと思います。

 ここには「物に立たれる」があるとも言えるし、ないとも言えそうですが、私はないほうに心が傾いています。

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 作品の冒頭の「深い谷底に一人ですわっていた」(p.8)杳子が、積み重ねられた岩(石)が立っているのに見入っていた(つまり、石に見入られていた=魅入られていた)のを思いだしましょう。

 これが最初の「物が立つ」であり「物に立たれる」だと言えます。以後、この作品では、いくつもの「物が立つ」と「物に立たれる」が出てきます。

 最後の「物が立つ」と「物に立たれる」は積み重ねられたカップと皿に間違いないと思います。

 食べ終えると、杳子は立ち上がって、しばらくためらうようにテーブルの上を見つめていたが、いきなり残酷な手つきで自分の皿と彼の皿を、自分のカップと彼のカップを重ね合わせて、テーブルの真中に置いた。上のカップが下のカップの中で斜めにかしいで把手とってを宙に突き出しだまま落ち着いた。二人は顔を見合わせた。
 杳子は(……)壁際の長椅子いすに軀を沈めた。
 どうせ続かない釣合いをひと思いに崩してしまおうと、二人は軀を押しつけあい、ときどき息をひそめてはまだ釣合いの保たれているのをいぶかり、やがて釣合いの崩れ落ちるよろこびの中へ奔放に耽りこんだ。
(p.169・丸括弧とリーダーによる省略は引用者)

 二人の行為が何かを遂行するための儀式に見えてなりません。象徴的にも見えるこの二人の行為は、さまざまな解釈が可能でしょう。

 そして、最後の最後の場面になって、上で引用した展開――物たちが立ち、人たちが立つ――が見られるのです。

 冒頭から「立つ」と「立たれる」と演じてきた人と物とのあいだに一種の和解が起きている、そんな気がしてなりません。

     *

 なお、この場面では次のように読めそうな部分があることを指摘しておきたいです。

家々の間をひとすじに遠ざかる細い道のむこうで、赤みをました秋の陽がせ細ったの上へ沈もうとしているところだった。
(p.170)

陽(日)が樹(木)の上へ沈もうとしているところ:まもなく陽(日)が樹(木)の下に沈む。

 日 ⇒ 
 
木 ⇒ 

 つまり、

 というふうに。

 まさかですけど、最後の最後だけに気(木)に掛かります。

 いずれにせよ、ラストを飾るにふさわしい美しい描写であるとだけは言えそうです。

 木に掛かり 下へと沈む 日の行方

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 長くなりそうなので、今回はここで止めます。

*まとめ


 今回の記事のまとめです。

 古井の小説の小説だけでなくエッセイでも、物が立ち、物がそこにあるかたちで、登場人物(小説の場合です)や、古井(エッセイの場合です)に働きかけてくるという言葉の身振りが見られます。
 つまり、「物が立つ」とき、しばしばその物が人物に働きかけるのですが、これは人から見ると「物に立たれている」ことにならないでしょうか? 
・(物が)立つ ⇒ (人は物に)立たれる
「ともぶれ(共振)」です。共に振れると言っても、振れるのは人のほうなのですが、この「振れる」は、「震れる」、「触れる」、そして「狂れる」までいくことがあります。

     *

 タイトルをめぐっての私の個人的な連想と感想だけの記事になりましたが、無理をせず、少しずつマイペースに連載を進めていこうと思います。

 なお、この連載は不定期に投稿する予定です。

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