はからずもはかられる、はからずにはかる
前回の「はかるとわかる」で、「イメージや似ているは個人的な印象ですから、人それぞれでしょう。」と書きました。
今回はその「似ている」という感覚についての私の印象をお話しします。
「似ている」と「同じ」は似ている
私の印象では、「似ている」と「同じ」は似ています。激似とか酷似とまでは言いませんが、よく似ています。
よく似ているので混同します。つい同一視してしまうのです。
自分は「似ている」と「同じ」を同一視などしない、したこともない。そうおっしゃる方もいそうですし、実際そんな言葉を聞いた覚えがあります。
人それぞれです。
そうなのです。「似ている」は人それぞれの印象やイメージであり、「同じ」はみんながそう言っている、またはそう書いているものだ、と言えます。
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「同じ」はみんな(漠然とした言い方で申し訳ありません)がそう言っている、またはそう書いている――この点がきわめて大切だと私は思います。
「同じ」とは、みんなで決めたものであり、みんなで決めたから、みんながそう口にするし、文字にしている。
言い換えると、「同じ」とは、共有されている知識であり情報なのです。これを体系的かつ組織的に学ぶのが学校だと言えるでしょう。
さらに言い換えると、「同じ」とは、人が自分のつくった「はかり」に外部委託して「はかった結果」です。
さもないと、「同じ」の信憑性が怪しくなるからにほかなりません。
ここで、前回に書いた「はかり」と「はかる」が出てくる図式的なまとめを引用します。
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*はかる:人が最も苦手とする行為。人は、「はかる」ための道具・器械・機械・システム(広義の「はかり」)をつくり、そうした物たちに、外部委託(外注)している。計測、計数、計算、計量、測定、観測。とりわけ機械やシステムは高速かつ正確に「はかる」。誤差やエラーが起きることもある。
*わかる:人が自分は得意だと思っている行為。「わける」は見えるが、「わかる」は見えない。見えないから、その実態も成果も確認できない。お思いと同様に共有できない。行為や行動と言うよりも観念。一人ひとりのいだく思い込み。解釈、判断、判定、判決、理解、誤解、解脱、悟り。
*わける:人が得意な行為。ヒトの歴史は「わける」の連続。分割、分離、別離、分断、分類、区別、差別、分岐、分別、分解、分節、分担、分裂、分配、分け前、身分、親分・子分。言葉と文字の基本的な身振りは「わける」。つかう道具は、縄と刃物とペン。線を引き、切り、しるす。
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上の図式的なまとめを見ていると、「はかり」が「はかった」結果であれば、みんなが「同じ」であると納得するし、信頼してもくれそうです。
いわゆる「客観的」とか「普遍的」という名の印象のことです。
機械やシステムによってこういう結果が出ている、しかも数値化されていたり、「見える」化されてもいるのだから、客観性があり、さらには普遍性もあるはずだという理屈――。
印象どころか、まるで黄門様の印籠みたいじゃないですか。私なんか、ははあーっと、ひれ伏してしまいそう。思考停止とか判断停止のことです。自分で考えようとしなくなります。
前回の記事に書きましたが、人における「はかる」とは、「はかり」に掛けているという意味での賭けだ、と私は考えています。
はからずもはかられる、はからずにはかる
話を戻しますが、「似ている」と「同じ」は似ています。
・「同じ」とは、みんなで決めたものであり、みんなで決めたから、みんながそう口にするし、文字にしている――。
そうではなくて、次のようなことが起きていないでしょうか?
・ある個人や特定の集団にとっての「似ている」が「同じ」であるとされて、それがみんなで決めたものになり、みんなで決めたから、みんながそう口にするし、文字にしている――。
「似ている」ならまだましです。かわいいものです。以下のようなことが起きていないでしょうか?
・「はかり」にすら掛けていない、ある個人や特定の集団の「もくろみ」や「たくらみ」が「同じ」であるとされて、それがみんなで決めたものになり、みんなで決めたから、みんながそう口にするし、文字にしている。
もしこんなことが起きているとすれば、これは「はかりごと・謀」以外の何ものでもありません。諮(はか)ってもいないでしょう。
はからずも、はかられる
はからずに、はかる
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はかる、計る、測る、量る、図る、謀る、諮る
どれも「はかる」で、音は同じで「似ています」が、「同じ」ではありません。
よろしければ、辞書を引いてみてください。私も今回の記事を書くのに当たって辞書を読んで勉強させてもらいました。
はからずも、はかられる
はからずに、はかる
上の二つのフレーズに、「計る、測る、量る、図る、謀る、諮る」を当てはめてみると思いがけない発見があります。はっとしたり、どきりとしたり、恐ろしくなることすらあるでしょう。
よくあることなのです。
私たちは「同じ」○○なのだから
私たちは「同じ」○○なのだから――という言い回しがよくつかわれています。このフレーズは要注意だと私は考えています。
私たちは「同じ」○○なのだから――、XXしなければならない、XXしましょう、XXするのが当然だよね、XXしろ、さもないと……。
○○には何が入るでしょう?
たとえば、家族、学校、職場、職業、自治体、団体・組織、病気、障害、身体的特徴、性別、社会的役割、宗教、言語、方言、趣味などが考えられます。
自分で選んだとか決めたものもあれば、そうでないものもあります。変えられるものと、容易には変えられないものもありそうです。
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私たちは「同じ」○○なのだから――。
こういう場合の「同じ」って「同じ」なのでしょうか? 「はかり」の「はかった」という意味での「同じ」だけではない気がします。「似ている」もありそうです。印象とかイメージのことです。
「似ている」と「同じ」は似ています。
よく似ているので混同します。つい同一視してしまうのです。もしそうだとすれば、人が「似ている」を基本とする印象の世界で生きているからだではないでしょうか。
人は「わける」のが得意ですが、「似ている」と「同じ」の区別は苦手なようです。こうした印象を「わける」ことに無理があるのかもしれません。私には「わかりません」。
それはともかく、そもそも「同じ」とは、あるものの、ある側面(属性)についてだけ言い、そのもの全体についての話ではないはずです。その意味で「同一」とは異なります。
「同じ」と言うなら、どこが、あるいは何が同じなのか、という話なのです。
たとえ「同じ」部分があったとしても、一つの属性で、私たちは「同じ」だなんて決めつけてほしくありません。
私たちは「同じ」ではなく「似ている」し「まちまち」である、つまり「一人ひとりが違っている」と私は言いたいです。
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ついつい、熱が入って記事が長くなってしまいました、はからずも。
体が大事です。気をつけます。