見出し画像

転々とする、転がる、ころころ変わる(「物に立たれて」を読む・06)

「「物に立たれて」(「物に立たれて」を読む・01)」
「月、日(「物に立たれて」を読む・02)」
「日、月、明(「物に立たれて」を読む・03)」
「日記、日記体、小説(「物に立たれて」を読む・04)」
「「失調」で始まる小説(「物に立たれて」を読む・05)」

 古井由吉の『仮往生伝試文』にある「物に立たれて」という章を少しずつ読んでいきます。以下は古井由吉の作品の感想文などを集めたマガジンです。

     *

 引用にさいしては、古井由吉作の『仮往生伝試文』(講談社文芸文庫)を使用します。

     *

 まず、前回の記事をまとめます。

 古井由吉の小説では、始めに「失調」があるというパターンが多いです。「失調」とは、「はし・きわ・さかい」に身を置くことと言えます。日常生活のど真ん中や奥まった部分にいて安泰な状態にあるのではなく、端っこにはみ出てしまうのですから。
「端」に身を置くとは、古井の作品においては、非日常的な時空にいたり、異界とのさかいに立つことです。そこでは出会い――この出会いは相手(対象)が人であるとは限りません――があるはずです。外部にいる「誰か」や外にある「何か」と出あって、何とかしてもらわなければならないのです。
「物に立たれて」では、語り手が、真冬の深夜の道路「端」で腕をはっきりと伸ばして大きく振ります。SOSを発しているのです。必死すぎるくらいの語り手は「失調」の状況にあるようにも見えます。そんなふうにして、タクシーの運転手と出会うことから、「物に立たれて」は始まります。

 では、今回の記事を始めます。


*引用


 物に立たれて

 十二月二日、水曜日、晴れ。
 深夜の道路端に車を待って立つの姿は、ひょんな場所ところだろうと、商売柄、遠くから目に入るものだが、たまに、すぐ近くに来るまでその人影のまるで見えないがある、とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。いま、そこに立ったのはないことは、気がついた時に一目でわかる、という。その辺の光線のぐあいや運転するほうの目のせいばかりでなく、服装や体格にもあまり関係なく、とにかく姿の見えにくい、そんなはあるものだ、と。
 それでも早目に気がつけば車を寄せる、ぎりぎりになっても寄せられないことはないのだが、なんだか運転の呼吸が狂わされそうで、悪いけど通り過ぎてしまうこともある、と。
 それはたまらないぞ、と腕をもうひとつはっきりと伸ばして大きく振ると、車はつと速度を落として寄ってきた。の姿ににわかに気がついたわけでなく、のほうの目に、閑散とした未明の道路を来る車のライトは、停まるとも過ぎるとも、ぎりぎりまでその表情は読みにくかった。よろこんで乗りこんだあと、それにしてもひと気もない道端でひとり大騒ぎする姿は、車の内からは妙なものに見えただろうな、と前方からたぐりこまれてくる歩道に人影を探す目をやり、なにか言訳をしなくてはいけないような、言訳をするのも変なような、落着かぬ心持でいるうちに、寒くはありませんか、と運転手のほうから声をかけてきた。ガラスが曇ったので、空気を入れ換えたばかりのところなもので、と。いやあ、外に立つのにくらべれば、極楽だあ、とそれに頓狂な調子で答えて、バッグを膝の上に抱き寄せると、ジッパーの口の端からすっと、鞄の内に溜まっていた冷たい空気が流れ出た。
「いま、K病院まで、を運んだその帰りなんですよ」と運転手は言った。(……)
(古井由吉「物に立たれて」(『仮往生伝試文』・講談社文芸文庫所収)・pp.259-260・太文字と(……)は引用者による)

*三つの「客」


 前回までにくらべると、すいぶん長い引用になりました。これだけ長いと、どうしても遠慮が出てきます。著作権者の方にも、出版社の方にも、この記事をお読みのみなさんに対しても、です。

 こんなに長く引用していいのだろうか、と。

 今回は長く引用しないと話ができないのです。致し方ありません。とにもかくにも、引用してしまいましたので、先に進みます。

     *

 引用文で「客」という文字というか言葉だけに太文字をほどこしました。

1)「深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、」から「そんな客はあるものだ。」

 この段落の「客」は、「十二月二日」の深夜より以前に、語り手(日記の書き手)が、どこかのタクシーの運転手から聞いた話に出てくる「客」です。

2)「それはたまらないぞ、」から、「鞄の内に溜まっていた冷たい空気が流れ出た。」

 一方で、この段落の「客」は、「十二月二日」の深夜の語り手を指しています。つまり、「私」と書き換えることも可能な「客」です。

3)「「いま、K病院まで、客を運んだその帰りなんですよ」と運転手は言った。」

 他方、この一文にある「客」は、「十二月二日」の深夜に語り手を乗せることになったタクシーの運転手の言葉ですから、ついさきほどまでそのタクシーに乗っていた「客」です。

     *

 三種類の「客」に、たった一つの「客」という言葉と文字が当てられているのです。

 読みにくくありませんか? 

 注意して読まないと混乱するのではないかと思います。でも、こうした書き方は古井由吉の小説では決して珍しいものではありません。読み慣れる必要があるとも言えるでしょう。

 私はこういう古井の文章が好きです。好きだから、わざわざこの部分がある「物に立たれて」を読む連載をしています。

 どうかお付き合いを願います。できるだけ読みやすく書きますので。

*転々とする、転がる、ころころと変わる


 以上見た、三つの「客」というか三種類の「客」は、「客」という言葉の辞書的な語義と、その言葉が呼び起こすイメージに沿ったものだと私は感じています。

 まず、簡単にまとめると、「客」とはうつろうものなのです。転々とするし、転がるし、ころころ変わるもの――これが「客」のイメージだと私は思います。

 では、愛用の国語辞典から、「客」という言葉の語義と、「客」に関連する言葉を引用します。

*「きゃく・客」
 ・訪問してくる人、まろうど。
 ・旅人。家から離れ、旅館などにとまる人。
 ・自己や主たるものと別にあって対立するもの。←→主。
 ・商売で、料金を払う側の人。
 (以上、広辞苑より)

*「きゃく・客」
 ・霊(たま)祭などの、祭の場に来る死霊・霊魂。
 (以上、日本国語大辞典より)

     *

 くり返します。

 まず、簡単にまとめると、「客」とはうつろうものなのです。転々とするし、転がるし、ころころ変わるもの――これが「客」のイメージだと私は思います。

     *

 私は「客」をもちいた次の言葉に注目したいと思います。

*客体
*客人・まろうど
*過客

 そして、「まろうど」から連想して浮ぶ、以下の言葉にも目を向けずにはいられません。

*まろむ・丸む・円む
*まろめる・丸める・円める、まるめる・丸める・円める
*まろぶ・転ぶ・ころぶ・転がる
*まるまる

*転石苔を生ぜず
*万物流転
*起承転結

 この小説の冒頭では、「客」という語と文字がその意味とイメージに擬態していないでしょうか。

     *

「客」という語が、殻や器に見えてきます。連想で遊んでみます。

 から、空、殻
 うつろ、空ろ、洞ろ、虚ろ
 うつわ、うつわもの
 うつろう、うつりかわる

 やどかり、宿借り、借家人、居候
 かりる、借りる
 かり、かりそめ、仮

 上の文字と文字列を眺めていると、いかにも古井的な言葉とイメージに見えてきます。私は暗示、とりわけ自己暗示にかかりやすいのです。

 古井の諸作品でくり返し出てきて変奏される、つまり転じていくイメージと言葉に見えてなりません。

*まとめ


「十二月二日」の「日記」の前半では、段落で分けられる形で、三種類の「客」が出てきます。それぞれの「客」が指す人物が異なるのです。「客」⇒「客」⇒「客」とありながら、その中身が変わっている、移ろっている、転じていると言えるでしょう。「客」には「まろうど・客人」の意味がありますが、この作品の冒頭に出てくる「客」は、その中身が「転じる」ことで「まろぶ・転ぶ・転がる」に通じる身振りと動きを演じているかに見えます。転々とする、転がる、ころころ変わる、というイメージです。まるで、ここで用いられている「客」という「語と文字」が、その「意味とイメージ」に擬態しているかのような印象を受けます。

#読書感想文 #古井由吉 #仮往生伝試文 #小説 #イメージ #連想 #擬態 #客 #国語辞典 #広辞苑 #日本国語大辞典 #客人 #まろうど #まろぶ


この記事が参加している募集