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「似ている」を求めて(「客」小説を求めて・01)

「客「である」、客「になる」、客「を演じる」(「物に立たれて」を読む・07)」の続きです。ただし、今回のこの記事は新しい連載の第一回として書きます。

 なお、「「物に立たれて」を読む」は続けます。


*前回のまとめ


 まず連載を始める切っ掛けになった前回の記事をまとめます。

 古井由吉の小説では、語り手や作品の視点的人物が「客」として設定されることが多いどころか、ほとんどがそうであるような印象を受けます。それは冒頭を読めば、はっきりとわかります。
 たとえば、タクシーや電車や新幹線や飛行機の乗客になったり、登山者をふくむ観光客になったり、弔問客になったり、いわば病院の客である患者になったり、競馬場で観客になったり、どこかの家に招かれる客になるという形で、小説が始まるのです。
 古井の小説を「客小説」とか「ゲスト・ノベル」と呼びたくなります。しかし、「客」とは立場であり役割だという意味で、誰もが「客」になりうるわけです。そう考えると、古井の諸作品だけでなく、あらゆる小説、物語、映画、戯曲において、そこに登場するあらゆる人物が「客」になりうるという理屈になり、「客小説」などという呼称は勇み足であり言い過ぎだという気もします。
 そもそも、世界には絶対的な不動の「主人」などいないのかもしれません。おそらく「主」である「神」以外には。人は誰もが常に浮動する「客人・まろうど・過客」なのだろうという気がします。ひょっとすると、万物がそうなのかもしれません。
 かりにきて かりたやどには あるじなし

*「客」小説、ゲスト・ノベル


 語り手をふくめ、主要な登場人物が「客」である小説はきわめて多いと感じます。こじつければあらゆる小説が「「客」小説」とか「ゲスト・ノベル」だと言えそうな気がしてなりません。

 私は「似ている」という感覚が好きです。「似ている」と「同じ」は似ていますが、私は「同じ」が苦手で、嫌悪感をいだくことさえあります。「まちまち」「異なる」「違っている」に好感と安心感を覚えるのです。

 文学作品を鑑賞していて(私の場合には文字を読むというよりも文章を眺めています)、あれこれ考えているときに、「ここはあれに似ている」とか「こことここは似ている」と感じるとわくわくします。

 ある小説について書く私の文章のほとんどは、その「似ている」という感覚をめぐってのものだと言っても言い過ぎではありません。

     *

 今私はわくわくしているのですが、それは古井の小説群のほとんどに客という設定が出てくることにわくわくしているからだけではありません。

 人物が客として登場する設定が、「うつる・うつす・うつろう・うつりかわる」と「さかい・はし・ふち・へり・きわ」という言葉と文字のイメージに、よく「似ている」という思いにとらわれているからです。

・うつる、うつす、うつろう、うつりかわる
 写る、映る、移る、遷る、写す、映す、移す、遷す、
 移ろう、映ろう、移り変わる

・さかい、はし、ふち、へり、きわ
 境、端、縁、際
 堺、界、橋、淵
 

・客、過客、客人・まろうど、
 借りる、借り、仮
 まろぶ・転ぶ・ころぶ・転がる

 三者は私にはよく「似ている」のです。以上の一連の連想と連関が押し寄せてきて、軽い目まいを覚えるほどです。

 とはいえ、「似ている」は個人的な印象とそれに基づくイメージでしかありません。誰もが、上の三者を「似ている」と感じるわけではないのです。

*川端康成の『雪国』と『眠れる美女』と『名人』と『葬式の名人』


 話が抽象的になってきたので、具体的に作家と作品名を挙げてお話しします。

 たとえば、「うつる・うつす・うつろう」を私が強く感じる作家として、川端康成がいます。『雪国』なんて、冒頭の汽車の場面から「うつる・うつす・うつろう」ではありませんか。

 しかも、視点的人物である島村は汽車の乗客として登場します。娘(葉子)もそうです。例の汽車の窓ガラスに「うつる・うつす」主体と客体というキーワードで論じることもできるでしょう。

 雪国の旅館で客として滞在している島村は駒子の客でもあります。この作品の登場人物たちは、島村をふくめて誰もが社会の端にいたり境目にいるとこじつけることも可能でしょう。

『眠れる美女』の江口老人も客です。『名人』では、名人の引退碁に招かれた観戦記者という名の客として語り手が登場し、その語り手が頼まれて本因坊秀哉名人の死顔の写真を撮る、つまり写す話が冒頭に出てくるのです。この引退碁は、場所を移しての対戦でもあります。病弱であるだけでなく衰弱している名人は境目にいながら、最後の対局に臨んでいるのです。

 詳しくは、「音もなく動くもの(スクリーン・06)」と「「写る・映る」ではなく「移る」・その1」をお読みください。

     *

 そう言えば、川端の作品では、死そのもの、死者との交流、そして死の気配(予兆)がよく出てきますが、そこだけを取りだして考えると、弔問客としての設定が頻出する古井由吉の作品によく似ています。

 ただし、諸作品を細部をよく読めば、似ていない部分や要素が多いと私は感じています。

 作品とは、どんな見立てで読もうとしても、必ずその見立てに合わない細部が出てきます。作品を解く鍵などは存在せず、作品を説明するものは作品そのものしかない。そんなふうに私は考えています。

 私のいだく「似ている」という感覚は、まぼろしなのでしょう。作品が人を作品へと誘う蜃気楼や逃げ水なのかもしれません。だから惹かれるのだとも思います。

     *

 話を戻します。

 川端が若い頃に書いた『葬式の名人』(文藝春秋 1923年5月)は、後の作品を予感させる細部に満ちた興味深い短編です。そこには、肉親を早くして次々と失ったために、「客」の立場として生きるしかなかった少年の心持が決して感傷的ではない筆致で描かれています。記録という印象の文章です。

「客」だけでなく、「うつる・うつす」と「さかい、ふち、へり」というテーマもうかがえます。

『葬式の名人』(『伊豆の踊子・骨拾い』講談社文芸文庫・所収)から目についた言葉と語句を挙げてみます。

 郷国へ帰省、親戚に寄食する、縁者の家から家へ渡り歩く、二軒の家で過すのが習わし、渡船で往来する、三十日足らずの間に私は三度葬式に参列した、分家、当主、棺の中の人の顔を私は知らない、弔問、礼式、楽々と役をつとめていた、私を眺め私の真似をした、喪主、誰が死んだのかも私は知らなかった、私は碁を打ち続けて出棺を待っていた、「あんた、葬式の名人やさかい。」、葬式屋のようだと、淀川を渡った、実に私は幼少の頃から数え切れない程葬式に参列していた、摂津地方の葬式の習慣を体得している、肉親達の死に度々遭ったからである、家を代表して会葬したからである……。

 弔問、喪、手伝い――という形で、人は「送り」にかかわりますが、誰もが最期には「送られる」で終わります。長い長い目で見れば、人は誰もが等しく「・賓・まどうど・まれびと・客人、過客」なのですね。客は移りゆく「もの・者・物」たちのかりそめの役なのだと思います。

「もの・者・物」たちが移りゆくというよりも、役そのものが移りゆくのかもしれません。そうであれば、ものも役も器なのかもしれません。世界という物語に主語はあるのでしょうか? 主役や主人(あるじ)はいるのでしょうか?

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 まだまだ指摘したい作品がありますが、具体的には今後の記事で見ていきたいと思います。

*「客」小説を求めて


 藤枝静男、吉田修一、レイモンド・カーヴァー、スティーヴン・キング、宮部みゆき、パトリシア・ハイスミス。

 今挙げた作家の諸作品には以下のような、登場人物の立場や、作品の設定や、ストーリー展開が見られます。

・客、主人、一軒を構える主人が出かけて「客」となって彷徨う、「客」となったキャラクターや魂が移ろう。
・居候という名の客、都会で生きる地方出身者の「いつまでも客である」という意識、客であることから犯罪が始まる、ふちや境目にいる人間のいきざま。
・客が家に入ることから話が始まる、主人と客の立場が逆転する。
・社会や集団の中で主役でも主流でもなく「お客さん」扱いされている人物、境目、ボーダー、生と死のふちとしての恐怖。
・親を失って別の家族の家で暮らす少年、社会のふちで生きる普通の人たち、犯罪という日常と非日常のはざま。
・客として招かれながらその主人になりすまそうとする人物、客から主人になった人物が偽者という境遇で生きる。

「きっと、あれだ」と思われた方もいらっしゃるにちがいありません。今後の記事の中で詳しく書いていくつもりです。

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 こうやって上の要約を見てみると、小説とは敗者の物語であるという意味の言葉を思いだします。

 確かに、「うつる・うつす」、「さかい・はしっこ」、「あちこち訪ね歩く客」に、勝者のイメージはそぐわない気がしてきました。差別ともかかわってくるという意味です。

 とはいえ、「客」とは、人同士の関係性から生じる一時的な立場や役割であって、人に備わった単一の属性ではありません。
 
 人は誰もが多義的で多層的で多面的な存在ですから、「客」だから敗者だという一義的な定義づけは乱暴であり、危険であるとさえ思います。

*客、移、遷


 以前に記事で紹介した「客」の語義として辞書に載っている文字と文字列を、もう一度並べてみます。

*「きゃく・客」
 ・訪問してくる人、まろうど。
 ・旅人。家から離れ、旅館などにとまる人。
 ・自己や主たるものと別にあって対立するもの。←→主。
 ・商売で、料金を払う側の人。
 (以上、広辞苑より)

*「きゃく・客」
 ・霊(たま)祭などの、祭の場に来る死霊・霊魂。
 (以上、日本国語大辞典より)

     *

 どうやら「客」とは、訪ねて来て一時的にある場を借りる人のようです。

「借りる」という行為は、「かりそめ」に通じます。つまり、「仮の宿」の「仮・かり」です。

 訪ねて行ったり来たりするという客の身振りは、「移る・移す」そのものですが、「移る・移す」は物理的な移動ですから、困難であったり場合によっては不可能な行為と動作でもあります。

 そこで人は「移る」のいわば代償行動として「写す・写る、映す・映る」をおこなうという考え方もできると思います。それがもっともわかりやすい形で作品化されているのが川端康成の小説です。

     *

 なお、以前にくらべれば「移」がずっと容易で楽になった現在においては、「移」をしながら同時に盛んに「写」と「映」に熱中する姿があちこちで見られるのは、みなさんがご存じのとおりです。今のは皮肉ではありません。念のため。

「移」の代わりに(代償として)「写」と「映」をおこなうというより、「移」を残すために、あるいは「移」をした証しとして、「写」と「映」をおこなうのかもしれません。誰のために残し、また証しとするのかは問わないことにします。

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 川端の『名人』のある一節を読んでいて(眺めていて)、「遷す・遷る」が気になり、漢和辞典で調べたことがあります。

「遷」:「もとの場所・地位をはなれて、中身だけが他にうつる」「魂が肉体からぬけて、自在に遊ぶようになった人。仙人。」(漢字源・学研)

 遷移、変遷、左遷
 司馬遷
 遷都、遷宮

 都、宮 

 以上の言葉を連想します。

 どう考えても「客」ではないでしょうか?

 この辺については、以下の「場を移りながら生きるものたち」に書いています。

*今回のまとめ


 私にとって「似ている」という感覚ほど大切なものはありません。「似ている」事や物や現象に出会ったとき、気が遠くなるほどの心地よさを覚えることすらあります。「似ている」を味わいたいために小説を読んでいる、眺めているとも言えます。

 これまで私は「うつる・うつす」と「さかい・はし、ふち・へり」という言葉をキーワードに、「似ている」を楽しみ、その楽しんだ結果を記事にしてきました。今度は「客」というキーワードとそのイメージで「似ている」を味わうという新しい楽しみを見つけました。

 そんなわけで「「客」小説を求めて」という連載を始めます。昨日の「敬体小説を求めて(散文について・04)」と同様に軽薄とも言えるタイトルですが、まさにそんな気分なのです。

 軽い気持ちで連載を始めたものの、本気で取り組めばかなり長い連載になりそうです。連載と心中するつもりはありませんので、過去の記事を流用するという横着をしながら、体調を考慮してマイペースで進めていくつもりでいます。

 またお立ち寄りいただければ嬉しいです。

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