織物のような文章
【※この記事には川端康成作『雪国』の結末についての記述があります。いわゆるネタバレになりますので、ご注意ください。】
縮む時間の流れる文章
川端康成作『雪国』の終章の前半である、縮(ちぢみ)について書かれた部分には――「縮」だから「縮む」というわけではありませんが――縮む時間が流れています。
この小説では、縮織は縮(ちぢみ)と書かれていますが、縮は産物であり製品です。
たとえば、ある地域やその産物などの長い歴史をしるすためには、長い年月という時間(期間・スパン)を縮める、つまり短くしなければなりません。人生の縮図という言い回しがありますが、まさに時間を凝縮するわけです。
歴史(時間)にせよ、地理(空間)にせよ、短くしたり小さくする、つまり縮めなければ言葉では記述できないという理屈になります。
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『雪国』の終章の前半には、そうした縮む時間がストーリーとともに、簡潔ながらも、ゆったりと流れているのです。
本記事は「伸び縮みする小説」の続編です。
績まれ、生まれる産物
『雪国』ではタイトルのある章立てはおこなわれておらず、一行空けで区切ってあるだけなのですが、最終章は次のように始まります。
「雪」が七つ繰り返されていますが、けっしてうるさくはなく、むしろ降る雪を連想させ、音読しても音の連続が快く響きます。
そこでつかわれている「績む・うむ」は、私には馴染みのない言葉なので辞書であたってみると「麻・苧(からむし)などを細く裂き、長くつないでよりあわせる。」(広辞苑)とあり、その語義の言葉でへその緒を連想してしまいました。
しかも「うみはじめてからおりおわるまで」という具合に、音だけで聞くと、「生(産)み始めて」にも聞こえなくありません。そんなことから、「績む・うむ」が気に入ってしまいました。
それにしても、綺麗な字面と音の文章です。
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「績む・うむ」といえば、古井由吉は麻糸に触れた文章で、次のように書いています。
生糸にくらべ、麻糸の場合には、荒々しい作業が必要なようです。
犬のお産
ところで、「績む」で「へその緒」や「産む」を私が連想したのには訳がありそうです。川端の小説では犬のお産の場面がよく出てくるのですが、きっとそれです。
たとえば、『禽獣』や、『掌の小説』に入っている『愛犬安産』では、犬のお産が詳しく描写されていますが、そのあまりにも生々しい書き方に怖じ気づかないではいられません。
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若い頃に翻訳家を志していた名残で、私は日本文学や外国文学の作品を日英の対訳で持っていて、書棚にはエドワード・G・サインデンステッカー訳の『禽獣』の英訳(Of Birds and Beasts)があるものの気が引けて、対訳で読んだことはありません。
原文と翻訳を見くらべながら読むのは、かなりの精読とか熟読になりますから、神経をつかう上に、一字一句が記憶に残る場合があります。川端が犬のお産を描写する筆致には鬼気迫るパワーを感じるので、精読は遠慮したいです。
とはいえ、生き物の誕生するさまは感動的なものだろうと想像します。
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犬や鳥を飼っていた川端康成にとって、犬のお産は趣味だったのではないでしょうか。作家としてだけでなく、人間としても私にはじつに興味深い人物です。
恐ろしいところのある人だと思います。いや、恐るべき眼をもった人だと言うべきでしょう。
「仏界入り易く、魔界入り難し」は『たんぽぽ』だけでなく、『舞姫』やいくつかの川端の作品で引用されている言葉です。私はその意味を考えることがよくあります。
Snow Country
気になったので、書棚にあるエドワード・G・サインデンステッカーによる『雪国』の英訳で、さきほど引用した部分を見てみましたが、これがまた音読すると美しい旋律を奏でるのです。
「親」が「mother」と訳されているのには、大きくうなずかずにはいられません。縮織は女性の手によって績まれ生まれる産物なのですから、まさに女性は産みの親であり績みの親なのです。
じつのところ、この文章のあとに続くのは女性の歴史でもあります。
なお、英訳での「in the snow」の五回の反復(リフレイン)がとても効果的で耳に美しく響きます。さすが、名訳と言われるだけあります。感動しました。
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in the snow ――。そうです、この小説は『雪国』(Snow Coutry)なのです。
伝聞による語り
上で引用したのは、最終章の冒頭の第一段落でしたが、この記事では、私がいちばん好きな第三段落を紹介したいと思います。とはいうものの、なにせ長い段落なので、大きく三つに分けて引用しながら感想を述べることにします。
「という」で終わる短い文に続けて、やはり「という」で終わる長いセンテンス(文庫版で四行にまたがります)が来ます。「という」ですから、伝聞であることは一目瞭然です。
まるで自分で見聞きしたかのようなルポルタージュ口調の語りではありません。「という」、「という」と、遠い過去の状況と様子を伝聞形式で重ねています。読むほうは、昔話を聞かされているような、わくわくした気分になる導入の仕方です。
この伝聞の使い方はうまいと思います。
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21世本因坊秀哉名人の引退碁を観戦し取材した『名人』を読むと、そのきびきびしたルポルタージュの文体に、川端はこんな飾らない乾いた文章も書くのかと新鮮な驚きを覚えます。
初期から晩年にいたるまでの川端の諸作品を集中的に読んだことがありますが、言葉の選び方やレトリックといった文体の側面、そして断章を緩やかに積み重ねるか、または緻密に構築するかといった構成の面でも、多様な作品を書いてきた作家であることがわかります。
すごい作家だと私は思います。『伊豆の踊子』と『雪国』だけの作家ではありません。日本文学をめぐっての随筆にも、これが川端かと印象を新たにするものがあります。
伝聞から断定口調へ
引用文の続きを読んでいきましょう。
この部分は、この段落で川端がいちばん書きたかったところではないでしょうか。川端の小説を読みなれた人には、その意味がぴんと来ると思います。
淡々とつづられていますが、内容は残酷であり哀しくもあります。女性にとって過酷な実態が書かれているのです。この部分で描かれている女性の身を思いやれば理解できると思います。
女性だけではありません。「子供」という言葉が見えますが、私は「児童労働」を連想します。
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この部分では、「という」がない、断定した語尾のセンテンスが四つ続きいています。まるで見てきたような口調ですが、その前に「という」のある文が二つあったため、聞いた話、または何かで読んだ話の続きとして、読者は読みすすむでしょう。
いわば織子のコンテストでもあった品定めが、嫁選びにもなり、十代から二十代前半までの腕のいい女性がもてはやされた事情が説明されているのです。
伝聞口調から断定へと、いわば転調されているにもかかわらず、すんなりと読めるのは、その文章のリアリティと臨場感のゆえだと感じます。
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「十五六から二十四五までの女の若さでなければ」――。ここには川端の真骨頂がよく出ています。艶消しになりそうなので、深く追求するのはやめておきます。
艶といえば、「つやが失われた」という表記が「艶がうしなわれた」となっていないことに注目しないではいられません。ここは、ひらがなの「つや」であるべきです。
年を取っては機面の艶がうしわれた。
僭越ながら、表記を変えてみましたが、ここで「艶」をもちいると、「艶っぽい」とか「艶やか」なニュアンスが出てしまい、文章が下品になる気がします。まさに艶消しです。
「年を取っては」と「面」があるので、加齢による女性の容姿の衰えを連想させて、この文に「艶」という漢字があらわれることで、あまりにも生々しく(生臭いほどです)残酷すぎる記述になりそうです。漢字には、それくらい見た目の迫力があります。
断定から推測口調へ
この段落の第二センテンスと同様に、最後のセンテンスは長いです。長いのですが、ここもまた平明な言葉遣いで流れるように綴られています。
内容の理解は別にして、曲の旋律のようにすっと染みこんでくる、このような長いセンテンスは川端の得意とするものだと思います。
第二センテンスもそうですが、漢字・漢語とひらがな書きのバランスをとることによって、リーダビリティが増します。
「織子」「糸を績み始めて」「晒し終る」といった専門的な言葉は漢字でさっと流し、「わざ」「ほかにすることもない」「雪ごもり」「こもっただろう」はひらがなでつないでいますが、ここを漢字にするとべたっとした字面になるでしょう。
「雪ごもり」と「こもっただろう」は音と意味の韻を感じます。雪にこもった分だけの愛着がこもる――。一生懸命にわざを磨いたであろう、娘達の健気さがつたわってくるようです。
一歩退いた「だろう」という推測の語尾が余韻を感じさせます。
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以上、語尾に注目すると、この段落は、伝聞、断定、推測と展開されているのがわかります。textの語源は織物だと言われていますが、このテキストには、三種類の手触りの記述が織り込まれているわけです。
テーマを織る
縮という織物の記述のされ方に注目しましたが、今度は同じ文章の内容を見てみましょう。
縮という製品がどのようにつくられるかを、初市を舞台にし、その働き手である女性に目を注ぐ形で、歴史と民俗の両面から簡潔に描いている――。この段落は、そのように要約できそうです。
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文庫版で十行からなる段落の文章なのですが、内容から見ても、綺麗に織り込まれたテキストだと私は感じます。語句を断片的に引用しながら、そのテーマの展開を見てみます。
・「初市」
・「娘達」
・「織り上げた」
・「織子」
・「品定め」
・「嫁選び」
・「子供のうちに織り習って」
・「十五六から二十四五までの女の若さ」
・「品のいい縮」
・「年を取っては機面のつやが失われた。」
・「わざを磨いた」
・「糸を績み始めて」
・「晒し終わる」
・「製品」
こうした語句が選ばれていることに注目しないではいられません。
いま見ている文章が川端康成作の『雪国』の一節であることを思いだしましょう。観光案内のパンフレットの文章ではなく、あくまでも小説の一部なのです。
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私の率直な印象を言いますと、芸者である駒子と、芸者の見習いである葉子との交流を描いた小説の中で、上の細部は二人の女性とその職業と、呼応しているように感じられます。
見事にかつ綺麗につながっているのです。縮についての文章が、小説のテーマに忠実に沿っているとも言えます。縮の話は余談に見えて、テーマをぜんぜん外してはいないのです。
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さらに言うなら、川端の諸作品を横断する形で流れる諸テーマからも外れていません。
・男の目から若い女性や少女を凝視する。
・男が女性を選ぶという設定。
・「商品」としての女性。
・成長し成熟する女性の課程を年上の(年配の)男がじっと見守る設定。
その意味で、この縮について述べた部分は、『雪国』という織物の中に違和感なくしっくりおさまる柄に仕上がったテキストだと言えます。
しかも、この部分はじつにスピード感のある簡潔な筆致(点描)で書かれています。長期間(長いスパン)を縮む時間として記してあるからにほかなりません。
二重写し
ここまでをまとめます。
ある製品の歴史や背景を語るというのは説明文の役割であり、それは事実を簡潔に述べる、言い換えると縮む時間を織る作業になります。
このようにして書かれたノンフィクションの部分をフィクションである小説の一部にすると、場合によっては読者に違和感をいだかせる結果をまねくでしょう。
『雪国』では、縮(縮織)という製品を芸者という職業に重ねることで、両者がそれぞれの比喩であるような形で織り込まれている。そんなふうにも言えると思います。
縮の歴史と芸者の成長が、いわば二重写しされているのです。両者の共通点は――酷な表現になりますが――「商品」だと言えます。私は上の引用文を読んで、そんな感想をもちました。
品(ひん・しな)
上の「まとめ」を書いているうちに、まだ言い足りないと感じたことがあるので、一部重複しますが、付け加えます。
この段落には複数のテーマがあって、それらが織り込まれているわけですが、メインのテーマは「品」だと思います。
・「品定め」
・「品のいい縮」
・「製品」
さきほど見たように、商品としての縮織が、商品でもある芸者の隠喩になるだけにとどまりません。
縮織をつくる側にいる「子供」とも言っていい「娘達」が、「初市」(初という文字に注目したいです)で「見世物」や「物売」(物という文字に注目したいです)と並んで、「嫁選び」の対象にもなっているのです。
「選ばれる」さいの基準は、品質だけでなく年齢、つまり若さである点に注目するとわかりますが、選別は差別でもあるのです。川端らしいテーマの設定だと思います。
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品は「しな」とも「ひん」とも読みます。「しな」は「品・科・階」とも書くそうです(広辞苑)。階はまさに選別と差別ですし、科では中国の科挙を連想します。
「品のいい縮は出来なかった」は「品(ひん)のいい」と読むのでしょうが、「品(しな)のいい」、つまり「品(しな)としていい」でもあると言いたくなります。露骨な言い方で恐縮ですが、そう思います。
「年を取っては機面のつやが失われた」という一文が残酷に見えてきます。面は顔なのです。
伏線とその回収
それにしても見事な構成の文章だと思います。
男が縮という織物に興味をもってその産地を訪ねるという副次的なストーリーと、その男がいわば「商品」である芸者と芸者の卵に目を注いでいるという全体のストーリーとが、合流して最終章の後半につながっていくわけですが、そのつながり方がまた見事なのです。
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どうつながっていくかを、私の連想をベースにして箇条書きにします。
・『雪国』の最終章の後半のクライマックスである繭倉での火事が、前半の縮(縮織)とつながる。繭倉は繭を保存するだけでなく、上述の「績む」作業や、機織りもおこなわれたと考えられます。
・「績む」と言えば、私はマハトマ・ガンジーが糸車を回していた写真を連想しないではいられません。さらに連想するのは、映写機なのです。織物にも映画にも無知な素人である私にとっては、両者(糸車と映写機だけでなく、糸とフィルムも)の動きがそっくりに見えてならないのです。
・ということで、縮が生まれる繭倉と、繭倉で映写機が回って火事になる最後の展開がつながります。
・織物である縮の話は、後半の天の河の伏線にもなります。たなばた(棚機・七夕)伝説の織女星および織女(しょくじょ・たなばたつめ)で、縮織の話とつながるという意味です。
・なお、島村と芸者である駒子の置かれた状況もまた、天の河と重なります。天の河は遠く離れた男女が年に一度逢うために渡る川(二人を引き離している川)だからです。
以上、伏線というよりも、むしろ私の連想で最終章の前半と後半をつなげました。
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舞台は冬。澄みきった冬の空に天の河がくっきりと見える夜。空気が乾燥していたにちがいありません。どの家でも暖を取っていることでしょう。
火事になりやすい条件がそろっているなかで、火事が起きます。
連想、廉想
ところで、この記事(私のどの記事もそうですけど)をお読みになっていて、おわかりになると思いますが、私は連想で話をつなげる癖があります。連想大好き人間なのです。
論理的思考が苦手で(これは若い頃から人に言われつづけてきたことです)、まばら(疎ら・ばらばら)に、まだら(斑・だらだら)にしか読めないし書けません。
きっと私の文章は、すかすかな、まだら模様であるにちがいありません。読みにくいでしょうが、お付き合いいただき、ありがとうございます。
縮む時間をつむいだ織物のような文章
縮む時間をつむいだ文章の糸をほどいて、もとにもどし復元したり、その構造を分析するのではなく、その縮んだ織物である文章の皺と襞を、指と手のひらでなぞって延ばす。延ばしながら、なでて手触りを楽しむ――。
そんな感じで読んできましたが、川端の文章に、私は美しい模様が丹念かつ周到に織り込まれた織物の趣を感じます。
この最終章のクライマックスである、火事と葉子の落下する瞬間を「のびる時間」として描いた後半について、近いうちに書いてみたいと思っています。
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*「夢のからくり」は、『雪国』の冒頭に出てくる汽車の場面を、「うつる・移る・映る・写る」にからめて綴った感想文です。私がnoteに復帰して初めての記事でもあります。
*「伸び縮みする小説」は、『雪国』の「最終章」を前半と後半に分けて、「ちぢむ時間」と「のびる時間」という切り口で書いた感想文です。比喩をつかったレトリックの多い文章ですが、個人的に愛着のある記事でもあります。
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