音声として立ち現れるもの、文字として立ち現れるもの
戻れない、もうあそこには戻れない、あの状態を取り戻すことはできないだろう。そんなふうに思うことが多くなりました。
年を取り、複数の持病をかかえているからかもしれません。
今頭にあるのは歌です。痛みや苦しみや悲しさをこらえるときに、知らず知らずのうちに頭のなかで歌や旋律の断片が鳴っていることがあります。
勝手に鳴るのです。流れているという感じ。
有り難いものです。
歌の場合だとその意味を考えることはまずありません。意味の塊として流れているのではないのです。あれよあれよと流れています。とにもかくにも流れている感じ。
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この歌がそうです。唱歌「故郷(ふるさと)」(作詞:高野辰之、作曲:岡野貞)。
強いて言えば、上のようにひらがなで頭に入っている感じですが、実際には文字を頭に浮かべることはありません。
単なる音なのです。意味も、まず意識にはのぼりません。
意味を意識すれば、以下のようになるのでしょうが、これは知識とか情報であって、頭のなかで流れている旋律をともなった音ではありません。
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音声として立ち現れるものと、文字として立ち現れるものは違うのではないかと私は感じています。
私はこの歌を、文字を知らない幼いころに歌い覚えたのだろうと思います。どう覚えたのかを記憶していないのですから、想像していると言うべきなのかもしれません。
つまり、この歌を歌い覚えてたさなかの気持ちや感覚には戻れないのです。
戻れない、もうあそこには戻れない、あの状態を取り戻すことはできないだろう――。
努力しても無理だと思います。
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話は少し変わりますが、この歌の一番をもう一度ひらがな尽くしの文字で見てください。
十音節。十文字。音節の数が――文字にすれば文字数が――見事に一致しています。
しかも、同じ音節数の列(文字にすれば線状のかたまり)が反復されているのです。
こんなことは、素人にはわかりません。素人というのは、詩の素養があるというか、詩をつくったり、詩を勉強したり研究している人ではないという意味です。
たとえば、この私がそうです。私は詩歌には極端に疎いのです。
そんな私には、上のひらがなだけの歌詞を見ても、音節とか文字数とか反復なんて頭に浮びません。文字を見ても立ち現れないとも言えるでしょう。
ただ知識として思いだして今書いただけです。
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歌詞を、もう少し、いじってみます。
さらに、意味の区切りが揃っていることにも驚かされます。
六音節+四音節。六文字+四文字。この調子で三番まで続くのです。
これもまた、素人には、おそらく見てこそわかるのですが、見たからと言って詩の構造として意識されているとか、わかっているとは言えそうもありません。
知識なのです。後付けの知識と言うべきでしょう。
言葉(音声)の意味や文字化や知識は後になってから習得するという意味です。主に学校がその学習の場になります。
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それにしても、驚きです。
古い歌や詩には韻や律というものがあると習いましたが、あんな素晴らしい形のものが自分の中に入っていたのですね。そしてふいに、あれよあれよと出てくるのです。
戻れない――。これは致し方ないことです。
文字を覚え、意味を覚え、理屈を覚える。その結果、失うものがあるのではないか。
そんな思いが私には強くあります。でも、一方で、何かを得た満足感もあるのは事実です。
いずれにせよ、寝入り際や、昼間にぼーっとしているさなかに鳴っているというか、気がつくと頭のなかに流れているものに、意味と文字が感じられないのは嬉しいことだと思います。
ほっとするのです。