文字を所有する、所有しない、共有する
まず、結論と言うか、まとめから書きます。
文字を所有する、文字を所有しない、文字を共有する――この三つは同時に起きていると私は思います。
文字には、目の前に「見える」物、目の前に「ある」物としての側面と、情報やデータという抽象的な側面の両面があるからです。
物は具体的な行為として所有できても、情報やデータは行為というよりも、観念や約束事として「所有としている」と「決める」しかないからだとも言えます。
そんな文字は共有することならできるし、実際にそうなっていると考えられます。
文字のこうした不思議とも言える特質は、文字が複製であり、複製としてしか存在できないことと、かかわっている気がします。
*文字を所有しない
現在は文字を所有しない時代だと感じることがあります。文字が浮遊している時代だからです。
文字が浮遊するというのは、たとえば写っているのではなくて映っていると言えばわかっていただけるでしょうか。
現に私は紙に写っている文字を読むよりも、画面に映っている文字を読んだり眺めている時間のほうが長い日があります。
書くのも同じです。キーボードを操作して、画面に活字を映しながら入力していくことが増えています。書くのではなく入力するのです。
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「映っている」文字は、そこに「ある」というよりも、そこに「見える」、そこに「ある」というよりも、そこに「浮んでいる」のです。
発せられたとたんに次々と消えていく言葉(音声)ははかない。それに対し、文字はいったん書かれると消さないかぎり残っていて、しぶといし、しつこい――。
そんなふうにずっと考えてきたのですが、その考えをあらためる時期に来ていると最近感じます。
映っている文字、浮んでいる文字も、話されて空気中に放たれた言葉と同様に、はかなくなっています。
投稿・発信・拡散・複製・保存がほぼ同時にほぼ瞬時に起こっている、画面上の文字は、「ある」のでしょうか? 「ある」とすればどこに「ある」のでしょうか?
もし「ある」として、それは誰が所有しているのでしょうか? パソコンやスマホやタブレットを私が所有しているとしても、そこに映っている、そこで浮遊している文字を私が所有しているという気持ちは希薄です。
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映っているもの、浮んでいるもの、漂っているものを、所有することができるのでしょうか。
空気は誰のものか? 雲は誰のものか? 影は誰のものか? こうした質問に近いものを感じないではいられません。
というか、そもそも所有という概念と文字とが結びつかないのです。
*文字を所有する
文字や言葉(音声)が漂い、浮び、映るものである時代は、パソコンとインターネットの登場する以前から始まっていた気がします。
映画とラジオ放送とテレビ放送が登場し普及しだしたあたりから、言葉・音声と文字・活字が浮遊しはじめたのかもしれません。
サイレントの映画では文字が銀幕上に映っていて、ラジオ放送では言葉(音声)が放たれ送られ浮遊して、テレビ放送では、文字が放たれ送られてきた文字が画面に映っていて、言葉(音声)が浮遊して耳に入ります。
ただし、映画やラジオやテレビが登場してしばらくは、文字が浮んでいるとか映っているという意識は一般的ではなかっただろうと想像します。映画もラジオもテレビも、初期には共有されていたからです。
みんなで見たり聞いたり楽しんだりする初期の体験から生じた「みんなで」という意識は、長く続いていたにちがいありません。
「パーソナル」コンピューターと、「携帯」電話の進化形であるスマートフォンが普及しはじめた頃、つまり、一人用で私的な所有物である機械を誰もが家で持っていたり、個人が二十四時間携帯できるようになって、ようやく文字が画面に浮んでいるとか映っているという感覚を、ぼんやりと意識する人が増えてきたのではないか。
そんなふうに想像しています。
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パーソナルでポータブルな機械を所有する。その機械には画面があって、そこに文字・活字が映っている、浮んでいる――。
それでいて、機械を所有していても、そこに映っているもの、浮んでいるものは所有していない――。
そんなパラドックスが生じているのです。
誰もが所有している機械によって、そこに映っているものが誰のものでもなくなっているからです。個人的な所有と、個人的なことではないはずの共有が同時に起こり、同義になっていると言えばいいのでしょうか。
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文字を所有する――。そんな時代はあったのでしょうか?
かつて写本という形で文字を所有することがあったそうです。長く続いていたらしいです。写本は希少で貴重な物だったにちがいありません。
大河ドラマなんかを見ていると、そんな気がします。
写本による文字の所有が長くあった後に、印刷術が普及し洗練と進化もして、お金さえあれば誰もが文字を所有する時代になった。
私はまさにそんな時代に生まれました――。
初めて自分で買った文庫本をまだ持っています。色褪せて解体しかけています。
私の中で「文字を所有する」という気持ちが生まれたのは、親に買ってもらった辞書や本や学習雑誌の横に、その文庫本を並べた時だったような気がします。
今思えば、パーソナルでポータブルなイメージの濃い文庫本が、私にとって初めて文字の所有感をいだかせた物であったことは、いかにも象徴的です。
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そんな私が中年になった頃に、文字が浮びはじめ、映りはじめたのです。
具体的に言うと、ワープロ専用機が登場したと思ったら、まもなくパソコンが普及し、ネットに接続されたパソコン画面で文章を入力するのが当たり前になったのです。
そして今に至ります。
ここまでの期間はきわめて短い気がします。文字通りあっという間なのです。振りかえると、これは夢かまぼろしなのではないかと思うことがあります。
浮んでいる文字、映っている文字を相手にするというのは、人類にとって初めての体験であり、まだ始まったばかりなのです。
そうした文字のありようは、見えていないにちがいありません。相手にするだけで忙しくて、その相手の素性すらがつかめていないのです。
変なところで言葉のあやとり(言葉の綾取り)をして、ごめんなさい。いずれにせよ、素性の分からない相手の相手をすることは、人にはよくあることではないでしょうか。
それがまさに文字だと私は思うのです。
*文字を借りる、文字を共有する
文字は誰のものなのでしょう? 文字列はどこからどこまでが誰かのものなのでしょう?
著作権については私は不案内なので、ここでは法律的な議論には立ち入りません。というか立ち入れません。
文字は誰のものなのでしょう? 文字も言葉(音声)も、私が生まれた時には既にありました。それを真似て借りる形で、私は学び、習得してきました。
言葉と文字の学習に卒業はないと私は認識しています。多すぎるし、どんどん忘れていくからです。今では忘れていくほうが多いと感じています。
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文字は借りたもの、真似て覚えたもの。文字は共有するもの。
文字は個人が所有できるものだという意識は私には希薄です。かといって、著作権という権利、約束事は守られるべきだし、保護されるべきだと考えています。
*複製としての文字、物としての文字
現在は文字を所有しない時代だと感じることがあります。文字が浮遊している時代だからです。
文字が浮遊するというのは、たとえば写っているのではなくて映っていると言えばわかっていただけるでしょうか?
借りた文字が、よく見るとちかちかする画面に浮いている、映っている。スクロールすると画面から、たちまち消えてしまう。
その文字たちは、どこへ行ってしまうのでしょう? そもそも、あったのでしょうか? そもそも、あるのでしょうか?
文字は複製であり、複製としてしか存在できない気がします。文字が物であって、所有できるというのは、たぶん夢なのです。
目の前に物として見える文字があるとすれば、きっとそれは人の思い込み、つまり、まぼろしなのです。ひょっとすると、文字という物の振りをしている「何か」なのかもしれません。
だから、それは人を惹きつけるのでしょう。
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浮遊する文字たちは、はかないものです。はかないだけに愛しい。初めて買った文庫本の存在感にくらべると、映り浮んでいる文字たちは、ずっとはかないのです。
でも、私が初めて「所有した」文庫本には愛おしさはあまり感じません。というか、その愛着は愛おしさというのとは違う気がします。
物であって自分の一部なのです。だから、いっしょに土に還してもらうようにと頼んであります。
それに文字が載っているという意識は希薄です。文字がいっしょに還ってくれるとは私には思えません。
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