小説は絵に似ている(小説の鑑賞・08)
今回は、小説は絵に似ていて、1)書かれるというよりも「描かれている」のではないか、2)読まれているというよりも「見られている」のではないか、という話をします。四部構成です。お読みになるまえに、目次をご覧ください。
以下の動画は、今回お話しする小説(書物)のイメージです。杉浦康平さんのブックデザインです。
◆執筆中の小説は絵に似ている
*小説は絵に似ている
小説は絵に似ています。
いましているのは、小説が、ある場面や風景を絵として描いているという話ではありません。描写の話ではないのです。
執筆されているさなかの小説が絵に似ている。執筆中の小説は書かれているというよりも描かれている。そんなふうに見えてなりません。
小説を執筆するさいに、小説家はどんな動きをするでしょうか。その目はどんなふうに動いているでしょうか。
*小説は直線
完成した小説は直線状をしています。
始め ⇒ 途中 ⇒ 終わり
最初の一文字(あるいは一つの約物) ⇒ 最後の一つの約物(あるいは一文字)
完成した小説は直線なのです。途中で折られたり、切られてもいます。改行や行空けや章分けやページ割りのことですが、それでも直線であることに変わりはありません。
文字と文字列に順番があるのです。つまり、整理されています。
*小説は一気に書かれない
小説はふつう一気に書かれません。ただし、機械による作文はここでは考えません。
また、小説は何を書いてもいいし、どんな形式でもいいという考えに立って、一字からなる、あるいは俳句や短歌くらいの文字数の小説があったとしても、ここではあつかいません。
*
そこそこの長さのある――あいまいな言い方でごめんなさい――小説は、途切れ途切れに、つまり断続的に、部分的に、また最終的な作品における前後に関係なく書かれます。
草稿や下書きができると、部分的に書き直すという作業がおこなわれます。校正もあるでしょう。
小説は一気に書かれないというのは、そういう状態や過程を想定しています。
*執筆中の小説に起きていること
執筆中の小説には、ふつう直しがおこなわれますが、それはすでに書かれた文字や文字列を消す形で、おこなわれます。
紙の上にペンや鉛筆で書くときには、書き直したり書き足す文字や文字列を、元の文字や文字列を残したまま、その横に(縦書きの場合)や、上や下に(横書きの場合)や、線を引っぱって余白に書かれることがあります。
元の文字や文字列と直したものを区別するために、色が付けられることがあります。なぜか、たいてい赤です。血の色です。朝夕の陽の色でもあります。
ワープロソフトやアプリをつかっての執筆でも、いま述べた方法を模倣したやり方で、直しや校正や編集がおこなわれます。
*執筆中の小説は線ではなく面
小説の直しや校正や編集のさいには、小説は直線ではなく、面としてあつかわれる点がきわめて大切です。
完成前の小説は、直線ではなく面なのです。面として見ないと、全体が見渡せないし、直しにくいからにほかなりません。
作者である小説家も、編集者も、校正者も、出版者も、面としての小説をながめ、にらみ、見渡したりします。
*
絵描きさんがカンバスや紙や壁や屏風や絵巻物にむかっている姿と似ています。そっくりなのです。
ただし、絵を描く場合には、編集者や校正者や出版者に当たる他人はふつういないもようです。絵を絵描きさん以外の他人が直すことはないもようです。
*文字を重ねて塗る
私は小説を書いたことがありますが、完成する前までには、文字や文字列の上に文字を重ねて塗っているような気がしてなりませんでした。
下書きのさいには、文字を並べている、つまり線状に進んでいるという思いと、面に文字を塗っている、つまり薄く拡がっていく(拡散していく)という思いが、同時に、または交互にあります。
直しに入ると、書き足しているとか書き直すというより重ねて塗っている感じです。何度も何度も。
塗っているという思いは、きっと、直す前、そして書き足す前の文字や文字列が頭にあるからでしょう。消せばなくなる、消せば忘れるということもありますが、なんとなく部分的に覚えているのです。
*
気になったせいか、文言をはっきり覚えていることもあります。そのため、前に(場合によっては前の前に)もどすこともありますが、そのさいにも、やはり重ねて塗るのです。
重ねて塗っているとき、小説が直線だと意識すると同時に、面だと考えている自分がいます。
ようするに、執筆中の小説は絵に似ているという意味です。そっくりなのです。
◆完成した小説も絵に似ている
*点と線と面
完成した小説は直線である。これは結果論であり、物としての小説の特性だと私は思います。
小説が直線状の物、つまり物質であり物体であるというのは、じつは人にとっては抽象だという意味です。
具体的な物が抽象でもあることはよくあります。抽象絵画という具体的な物がいい例です。いまのは半分冗談なのですが、抽象とか具象というのは言葉の綾なのではないかと最近よく思います。
*
完成した小説を前にした人にとって、目の前にある小説は直線であり、同時に点であり面でもあるという気がしてなりません。
人が小説を読むときには、文字と文字列を、目の前の文字と文字列として見るのではなく、文字と文字列の向こうを見ているからです。
これが「読む」なのです。読む人は「ここ」にはいなくて、「向こう」というか「どこか」にいるとも言えます。
心ここにあらず、とか、うわの空と言えば、分かりやすいかもしれません。
*文字を文字として見ると文字を読めない
読むという行為は、人が抽象の世界に没入することだと思います。この場合の抽象というのは「思い」と言い換えてもかまいません。
読んでいるさなかには、目の前にある直線状の小説が目に入っていないのです。逆に言うと、小説を直線としてとらえている人には、小説は読めないということになります。
念を押しますが、完成した小説のことです。
いま述べたことは、その作品の作者にとっても、編集者にとっても、校正者にとっても、そしてもちろん読者にとっても、そうだろうと思います。
*
小説は文字が並んだものですから、小説の最小単位である文字で考えてみましょう。
文字を文字として見ていると、その形や姿に目が行きます。文字の指し示すもの(そんなものがあればの話ですが)に意識が行かない状態です。
そんな状態で、文字が読めますか?
*小説はだまし絵
猫という文字を形として見ているとき、猫という文字は言葉でなくなっています。形であり姿であり模様なのです。物と言ってもいいでしょう。
「猫という文字(形・姿・模様)」を見て、「猫というもの」を思いうかべるとき、猫という文字は言葉(意味をともなうもの)になります。
だまし絵に似ています。どちらか一方を見ているともう一方が見えないのです。
だまし絵――絵という比喩をつかいましたが、やっぱり文字からなる小説は絵に似ています。というか、絵なのです。
*意味は見えない
大切なことなのでくり返します。
「猫という文字(形・姿・模様)」を見て、「猫というもの」を思いうかべるとき、猫という文字は言葉(意味をともなうもの)になります。
言葉(意味をともなうもの)――と書きましたが、意味は見えません。意味は、読んでいるその人にしか見えないのです。その意味では、意味は「思い」だと言えます。
いま話している「意味」は辞書に書いてある「語義」とは違います。語義は見えます。
*
意味は個人のなかでしか存在しない思いであり、抽象であるとも言えます。
さきほど書いたことを、くり返します。
読むという行為は、人が抽象の世界に没入することだと思います。この場合の抽象というのは「思い」と言い換えてもかまいません。
文字(文字からなる小説でもいいです)という具象(具体的な物)――これは他人にも見えます――を読んでいるとき、その人は他の人には見えない思いをいだいている、と言えば分かりやすいかもしれません。
◆世界は書物に似ている
*迷路
人は直線状の小説(物体としての小説)を、たぶん、点と線と面として読んでいるのです。どちらかではなく、どちらもです。
小説は直線(文字が直線に並んだ物)であり、同時に点と線と面(これは他人には見えない、たぶん思い)でもある。その思いは見えない。見えたとしてもすぐに消える――。
だから、直線で迷うことになるのだと思います。
活字が直線状に並べられた物としての小説は、人にとっては――人の頭か心か意識か魂のなかでは――たぶん点であり線であり面である迷路なのにちがいありません。
そんなややこしいものを目の前にすれば迷って当然です。
*
人生が、この世界が、宇宙が、くねくねごちゃごちゃした迷路であれば、すっきりさせたくありませんか。それが人情だと思います。
すっきりさせるための一つの方法が、線化であり直線化なのです。
小説も同じです。
小説はややこしい迷路だから、澄ました顔をした活字を線状に、しかも直線状に並べてあるのです。すっきりさせて、すっきりしたものだと錯覚させているのです。⇒ 「小説が書かれる時間、小説が読まれる時間(小説の鑑賞・06)」
*すっきりしていながら、すっきりしていない
すっきりしていながら、すっきりしていない。
迷路であって、迷路ではない
ごちゃごちゃであって、すっきりしている
直線であって、迷路である
直線を進んでいながら、迷ってしまう
すっきりしていると錯覚させるものを前にして、ごちゃごちゃしていると錯覚してしまう
*
小説を読む場合に、いま述べたようになっているのは、人が具象(物)と抽象(思い)のあいだを行き来しているからです。具象(物)と抽象(思い)の関係はだまし絵に似ていて、
(瞬間的には)どちらか一方であり、(そこそこの時間の長さで見れば)どちらの両方でもある
と言えば分かりやすいかもしれません。
*世界は書物に似ている
人は、
・具象(物・誰にとっても物として見える物・直線状の小説)を、
・抽象(その人にしか見えない「何か」、たぶん「思い」)として、
読んでいる。
だから、小説をめぐって意見が同じになることはない。小説を読みながら見ているもの(思っているもの)が違うから。
そう考えると、なんだか、小説が世界や森羅万象に思えてきます。
誰かが言ったように、世界は書物なのかもしれません。いずれにせよ、世界が書物に似ていることは確かです。
*何でも文字にされる
(瞬間的には)どちらか一方であり、(そこそこの時間の長さで見れば)どちらの両方でもある
人は自分がいつか死ぬことを意識していますから、何でも固定したがります。
固定する ⇒ 残す ⇒ 不滅 ⇒ 永遠
とりあえず、手もとにあって、固定できるものといえば、文字でしょう。だから、たぶん、人は文字として残すことに血道を上げるのです。
*
じっさい、何でも文字にされています。
経典、聖典、法典、百科事典、辞典、史書、法螺話、夢物語、寝言、年表、文学全集、公文書、私文書、契約書、誓約書、条約、約款、メモ・覚え書き、落書き。⇒ 「【モノローグ】カフカとマカロニ」
*文字は複製としてしか存在できない
しかも、文字は複製であり、複製としてしか存在できませんから、さらに複製をつくることができます。
文字は増えるし殖えるのです。
複製=投稿・配信=拡散=保存という意味です。パソコンやスマホがあれば、複製は無限にできるでしょう。
これは便利です。文字ほど便利なものがほかにあるでしょうか?
*死すべき者の短気と普遍=不変信仰
自分がいつか死ぬとつねに頭のどこかで意識していれば、せっかちに物事を考えるようになるのは人情というものでしょう。
(瞬間的には)どちらか一方であり、(そこそこの時間の長さで見れば)どちらの両方でもある
だから、どちらか一方でないと、つまり固定していないと不安になります。どちらでもあるとか、両方でもある、なんて、困るのです。
それが、普遍とか真理とか永遠への志向・指向・思考・試行・嗜好につながります。普遍は不変であるというのは不偏ではなく偏見。
短気で短期な目で物事を見てしまうわけです。
短気は損気。
*
(瞬間的には)どちらか一方であり、(そこそこの時間の長さで見れば)どちらの両方でもある
こういう見方に抵抗を覚えるのです。我慢できない。いらいらする。不安でならない。嘘だと思いたくなる。
長い目で見れば気持ちが楽になるのに、です。
短気と短期は損気。
*
一瞬こそが、不動で永遠。つまり、一瞬至上主義。
不動と固定こそが、普遍で真理。つまり、不動・固定至上主義。
普遍は不変。つまり、死すべき者の短期的展望に立った普遍=不変信仰。
万物流転なんて、とんでもない。諸行無常なんて、非論理的。有為転変とか有為無常なんて、理性を放棄した者たちの寝言――というふうに短絡したがるのです。
AはAでない。AであってBである。AがAであってAでない。AはBであってCでもある。……であって、……でない。……であって、……ではない。……でありながら、……ではなくなってしまう。なんてことは受け入れられないのです。
*
短期、あるいは一瞬での固定にこだわっているからにほかなりません。時間の経過とともに移り変る、場を変われば(または変えれば)見方も変わる、というのが、うさんくさく見えるのでしょう。
先が短いのに、いや先が短いからこそ、自分で世界と宇宙を固定したくなる。
だから、神まで捏造するのだろうと短絡したくなります。
でも、神を捏造するのは人情です。いかにも人間らしいではありませんか。人ならではの志向・指向・思考・試行・嗜好だと思います。
私も人の端くれですから、そういう気持ちは分かる気がします。
*
脱線してしまいました。軌道を修正します。
◆まばらにまだらに
話が大きくなりすぎましたので、小説に話をもどします。
私がどのように小説を読んでいるか、というか、どのように小説をながめているか、をお話しして記事を締めくくりたいと思います。
*小説をまばらにまだらに読む
この記事でいちばん言いたかったことをくり返します。
読むという行為は、人が抽象の世界に没入することだと思います。この場合の抽象というのは「思い」と言い換えてもかまいません。
*
次のようにも言えるでしょう。
小説を読むときの人の目は、跳んだり、飛んだり、跳ねたり、一箇所に一時(いっとき)とどまったり、前後したりしている、と。
私の場合にはそうです。あと、私の場合には、まばらにまだらに読んでいるし見ています。意識が散漫だからでしょう。
*
点と線と面としてだけでなく、まばらに、そしてまだら状にながめています。活字に濃淡もある気もします。あと、なんとなくですけど、色もありそうです。
やっぱり、自分の思いのなかに没入して読んでいる気がします。
以下は杉浦康平さんのブックデザインですが、小説にかぎらず、私が思いのなかで、ながめている本に似ています。
言葉の夢、夢の言葉。
夢の言葉、言葉の夢。
書物を読んでいるときの私は、夢の言葉のなかにいる気がします。夢の言葉は言葉の夢でもあります。
*
自分はいるのでしょうが、その自分が消えて何かに身をまかせている気分と気配が濃厚なのです。
たぶん言葉が夢を見ていて、その夢を見せられているのかもしません。
*直線を直線として読む
私の場合には、そんなふうに小説を読んでいるというよりながめているわけですが、なかには直線状の小説を直線として読んでいる人もいるにちがいありません。人それぞれです。
*
ところで、読書感想文を書く機械は、どのように読んでいるのでしょう。小説を執筆する機械は、どのように書いているのでしょう。
機械に聞けば、答えてくれるにちがいありません。
興味がないわけではありませんが、私には縁のない話であることは確かです。
落ち着きのない脱線だらけの文章にお付き合いくださり、どうもありがとうございました。
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