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錯覚を起こして楽しむ(錯覚について・01)

 小説を読んでいてはっとする一節やフレーズに出会うことがあります。たとえば、梶井基次郎作『檸檬』の以下の段落は私にはとても衝撃的で、さまざな思いを呼び起こしてくれます。

 時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団ふとん。匂いのいい蚊帳かやのりのよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。ねがわくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
(『檸檬』(『梶井基次郎全集 全一巻』ちくま文庫)所収・p.14)

 それほど長くもないこの段落に「錯覚」という言葉が三回くり返されているのが目立つのですが、反復に目が行く私としては立ち止まらずにはいきません。

 しかも「錯覚」は日頃から気になっている言葉なのでよけいに気になります。そんなわけで、この作品を読むのを中断してしばらく「錯覚」について考えてみました。

 とりわけ目を惹いたのは、次の箇所です。

・「――という錯覚を起こそうと努める。」
・「――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。」
・「私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。」
・「私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。」

 結局は「錯覚」を含むフレーズぜんぶが気になったのですが、共通するのは語り手である「私」が「錯覚」を思いのままに操っているという点です。

「私」は「錯覚」を意識的に起こしているのであり、起こった「錯覚」が錯覚であると意識しているのであり、「錯覚」として楽しんでさえいる。これが私には興味深く思えます。

 段落の最後で「私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。」とありますが、これはあくまでもレトリックであり、自分自身を見失ってはいないと私は理解しています。

 どこまでも自覚的なのです。

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 リアルで魅力的だと感じるフレーズは「私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。」、とりわけ「二重写し」という比喩的な表現です。

「二重写し」と言えば、川端康成作『雪国』を連想しないではいられません。

 この言葉の出てくる箇所について触れた拙文「長いトンネルを抜けると記号の国であった。(連想で読む・02)」がありますので、拙文から関係のある部分だけを以下に引用します。

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「表徴」と言えば、『雪国』の冒頭には「象徴」という言葉が一回だけ、つかわれた箇所があります。

 鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように働くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.10・太文字は引用者による)

 いかにも安易で軽薄な連想ですが、「写るものと写す鏡」というフレーズに、例の signe と signifiant と signifié という話を思いだしてしまいます。シーニュ、シニフィアン、シニフィエ――。

興味のある方は、以下の資料をお読みください。

「なんのかかわりもないのだった」なんて駄目押しされると、なおさらそんなふうに感じてしまうから困ったものです。

 冗談はさておき、「映画の二重写し」という比喩に魅惑されます。

(引用はここまです。)

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『雪国』の視点的人物である島村もまた、意識的に「映画の二重写し」に似た錯覚を楽しんでいると言えます。

 自ら錯覚を起こす(『檸檬』)、あるいは、鏡と化した窓による錯覚だと分かっている現象を意識したうえで(『雪国』)、その錯覚を楽しむというのは、幻想や幻覚と呼ばれるものよりもずっと軽度であり健全だとさえ思えてきます。

 以上は、文学作品の例ですが、現実をそのままにして(幻想や幻覚ではないという意味です)、その現実に自分なりに意味なり風景を重ねるという形で「二重写し」の錯覚を起こし、その錯覚を楽しむのであれば、ひとさまに迷惑も掛からないし、自らを深刻な事態に追いこむこともないはずです。

 意外とこういうマイルドな形で、ある種の現実逃避をしている人は多いのではないでしょうか。私にも心当たりがあります。

 たとえば、映画やテレビドラマを見ている最中に、その映画やドラマにのめり込み、それが終わったあとまで臨場感が継続して、現実がその世界に部分的に重なって見えてくることがあります。

 あるいは、その登場人物になった気持ちがなかなか後を引かずにいるから――どうせ他人には見えないし――、こっそりと思いきりその余韻に浸る。場合によっては、そのマイルドな「なりきり状態」を心の糧にして毎日を頑張る。

 きょうからわたしは○○として生きる。ここは1970年代のニューヨークの下町。きょうはあのドラマの第三話の気分でいこう――。

 二重写しの現実。「――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく」

 それで元気が出るのなら素晴らしいじゃないですか。微笑ましい密かな秘密だと思います。楽しみましょう。

     ◆

「錯覚について」という連載を始めます。

 連載を始めて完結せずに放置する癖が私にはあります。始めた時にはやる気満々なのですが、つづけているうちに気持ちが別のテーマに移ってしまうのです。

 気がついたら、けりを付けていない連載がいくつもあった――。

「薄っぺらいもの」シリーズが7回もつづいたのは珍しいほうです。きっと私が薄っぺらいからだと自己分析しています。

     *

 今年でnote4年目になります。出たり入ったりをくり返しているので、4年生とは言えそうもありません。進級するには単位が足りないようです。

・連載を始めることが記事を書く切っ掛けとインセンティブになる。
・連載中に関心が移って連載がポシャる。
・盛んに自己引用をするために記事が金太郎飴状のパッチワークになる。
・文書を削っての推敲が苦手で、文字どおり文字を加えての加筆になりどんどん文章が長くなる。
・勢いに任せて書きなぐった下書きに「加筆」はしても推敲をしていないせいで(清書という観念がなく一本記事を書くと次の記事のことで頭がいっぱいになっている)、誤字脱字が目立つ最終記事ができあがる。
・いったん投稿した記事をいじくり回す癖があり、いじくりながら記事がどんどん長くなってしまう(いじりながら文章のピントを合わせているつもりなのです、それでもピンボケですけど)。← この文、いじくり回しました。

 以上が私のnoteの書き方であり、noteのつづけ方だと最近気付きました。悪癖が多いですね。

 とはいえ、変に改めようとすると書けなくなったり、やる気が失せそうなので要注意だとは思います。

 当面の課題は、

・記事はなるべく短くする。

です。

 これからもよろしくお願いいたします。

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