始まりと途中と終わりがないものに惹かれる
*「複製としての楽曲(複製について・01)」
*「絵画の鑑賞(複製について・02)」
*「複製でしかない小説(複製について・03)」
「複製について」という連載をしていて気づいたことがあります。オリジナルか複製にかかわらず、作品には始まりと途中と終わりがあるものと、ないものがあるようです。
作品と言いましたが、ジャンルによって異なると言うべきかもしれません。
また、作品の制作や執筆には時間が掛かりますから、当然始まりと途中と終わりがあるわけで、作品を鑑賞するさいに、始まりと途中と終わりがあるものと、ないものがあると言うべきでしょう。
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「複製について」という連載の続きの記事は近いうちに書きますが、昨日「言葉の中の言葉」という連載を始めて、気づいたことがありました。
第一回目の「言葉の中には言葉がある(言葉の中の言葉・01)」を書きながら、国語辞典と英和辞典と漢和辞典を引いていたのですが、国語辞典を引いている最中に、「あっ!」と思わず声を上げてしまったのです。
辞書を始めから最後まで読みとおしたことがない、という当然と言えば当然のことに気がついたからでした。
今回は、そのことをお話ししたいと思います。
*始まりと途中と終わりがないもの
確かに辞書には表紙があり裏表紙があり、最初のページがあり終わりのページがあります。
でも、辞書を最初から終わりまで、時間を置くにせよ、読みとおす人は少ないと思います。その辞書をつくった人たちならありそうです。というか、何度も読みとおしてくれないと利用するほうは安心してつかえません。
利用者の一人として私の経験を述べますと、辞書を最初から最後まで読みとおしたことは一度もありません。私は辞書を読むと言うよりも、見たり眺めたりするのが趣味なのですが、残念ながら、読了した経験はありません。その必要も感じません。
私にとって、辞書とは始まりと途中と終わりがないものだと言えそうです。
物理的には始まりと途中と終わりがあるのに、感覚的には始まりと途中と終わりがないもの――。
そう言うべきかもしれません。人は物理的な世界に生きていると同時に感覚的な世界にも生きているからです。
こういうのを言葉の綾と言います。私は言葉のあやとり(綾取り)が好きです。ひょっとすると辞書を読むと言うより、眺めるのが好きだということと関係があるかもしれません。
*始まりと途中と終わりがあるもの、ないもの
始まりと途中と終わりがあるものもあると思います。
つくる側、つまり制作者や作者にとっては、つくるさいには始まりと途中と終わりがあるのは言うまでもありません。
一方の利用者、鑑賞者、読者にとっては、必ずしも始まりと途中と終わりがあるとは言えない気がします。
ジャンルによるだろうし、利用者の性格や習慣によっても左右されるにちがいありません。
ジャンルで考えてみましょう。「複製について」というシリーズでは、絵画と楽曲と小説を例に取ったので、その三つで考えてみます。
*絵画
絵画の場合には、鑑賞者にとって鑑賞し始める時刻と鑑賞し終わる時刻があるにしても、鑑賞者が絵画という作品を始まりと途中と終わりがあるものとして眺めることは考えにくいです。
絵巻物とか、壁に描かれた大きな絵だと、部分に分かれていて、それぞれの場面に異なるテーマがあったり、全体としてストーリーがあるというふうには考えられます。
私は絵画には詳しくないので、小さめの静物画とか肖像画とか抽象絵画で考えてみます。
どう考えても、鑑賞者にとっては絵画は始まりと途中と終わりがないと言わざるをえません。
*楽曲
楽曲は、生演奏(ライブやコンサート)か、複製(レコード、テープ、ディスク、放送、配信)か、また楽曲の長さにもよりますが、鑑賞する側からすれば、なるべく通して聴きたいし、通して聴くのが礼儀ではないかと思います。
逆に言うと、鑑賞者の愛の対象にはならない作品は、通して聴かれないだろうし、聴くのを途中でやめてしまうにちがいありません。始まりと途中と終わりがあるのに、いきなり終わりに行ってしまうのです。
主に個人が描く絵画とは違って、楽曲の場合には、作曲・作曲、編曲、プロデュース、メディア(媒体)の制作、複数の演奏者や歌手による演奏と歌唱――というふうに、制作には、のべで膨大な労力と時間を要するだろうと想像します。
私は楽曲や音楽には疎いので、想像しただけで目まい感に襲われます。ご苦労さまです。
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そう考えると、鑑賞する側にとっては、楽曲は始まりと途中と終わりがあると言いたいです。全体を通して鑑賞したいものです。
そもそも、音楽は時間の芸術と言われますから、その定義からすれば、楽曲には始まりと途中と終わりがあると言うべきだと思います。時間の経過は、始まりと途中と終わりを体感するのには最適の現象です。
時間の芸術と言えば、映画も演劇もそうでしょう。鑑賞するのに時間の経過がともないます。また、音楽と同様に複数、あるいは多数のスタッフや俳優の合作であることは確かです。監督や演出家や主演俳優だけでなりたつ作品ではありません。
無知な素人が偉そうなことを言って申し訳ありません。こういうのを無知の無恥と言うのですね。
*小説
小説もまた、作者とか作家一人だけがつくるものとは言えなくなってきているようです。
小説というジャンルは印刷術の進歩と洗練の産物だと言われますが、一人で書いて一人で印刷して一人で製本して一人で配布と販売ができるものではありません。
そもそも小説は複製としてしかありえないものですから、複製である印刷物やデジタルデータを小説家一人で制作できるわけがありません。
いや、そうでもないかも。
現在は、上で述べたような作業や工程が、パソコンがあれば一人でできる時代になっているようです。やろうと思えば。
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話が広がりそうなので、戻します。
小説も、書くほうからすれば、物理的な、つまり時間的な始まりと途中と終わりがありますが、読むほうからすると、始まりと途中と終わりはないと言ってもかまわないと私は考えています。
楽曲や映画や演劇と異なり、小説は一人で自分のペースで読むものですから、始まりと途中と終わりがあったとしても、まばらに読む、断続的に読む、はしょって読む、最初の数行と最後の数行だけを読む、読まないで「読了した」と宣言することができます。
私は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を若いころに数年かけて読んだことがあります。
愛読書であるローレンス・スターン作の『トリストラム・シャンディ』(原題:The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman)は、ところどころを読むという読み方をしているので、読みとおしたことはありません。おそらく、読了しないままにお別れすることになると確信しております。
それはそれでいいのだと思います。
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私の場合には、好きな小説だと、同じところを何度もくり返して読んだり、前後上下左右斜めなんて感じで行ったり来たりしながら読んだり、ただ眺めたりしています。
ストーリーを求めて読まないからでしょう。私にとって小説は絵なのです。
*始まりと途中と終わりがないものに惹かれる
こうやって異なるジャンルの作品のオリジナルと複製について考えていると、始まりと途中と終わりがないものに惹かれる自分に気づきます。
たとえば、私は映画が苦手なのですが、これは映画館で時間を拘束されるのが苦手だからにほかなりません。
レンタルやネットによる配信を利用すればいいのではないかと言われそうですが、それでも気がすすまないのは、映画が断続的に鑑賞されるようにつくられていないからだと思います。
長いクラッシックの楽曲や、そこそこの長さのあるのが一般的である演劇を鑑賞するのを避けてきたのも、同じ理由からだと自己分析しています。
始まりと途中と終わりがある、始まりと途中と終わりを指定されている、始まりと途中と終わりという枠がある――そうしたものが、私は苦手なのです。
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絵画、楽曲、小説、そして、映画、演劇であれば、私がいちばん親しんできたのは小説です。詩歌は苦手なほうだと言えます。
これまで記事にも何度か書いたことがあるのですが、私にとって小説は視覚芸術なのです。その意味では、絵画や写真に似ています。ただし、時間的な枠を指定される映画は除きますけど。
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上でも述べましたが、小説を読むとき、私は自分が好きな部分を眺めていることが多いです。なにかの小説について書く私の文章には、そうした私の読み方が出ているのではないかと思います。
私は小説のストーリーをつかむのも、ストーリーのあらすじを述べるのも、とても苦手で苦痛なために避けます。
ただ見ているのが好きです。見ていて気がついたことをメモするのが習慣です。その結果が、たとえば note で投稿している読書感想文だと言えます。
*線上に進む、線状のもの
小説も辞書も、物理的な始まりと途中と終わりがあります。本文であれば、最初の文字があり、最後の文字や約物(私は約物も文字だと考えています)があるはずです。
小説も辞書も、最初の文字から最後の文字まで線に沿って、つまり線上に進むもの、言い換えれば線状のものであるはずです。
小説も辞書も、言葉、文字、活字としてあります。
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話は変わりますが、昨日投稿した「言葉の中には言葉がある(言葉の中の言葉・01)」という記事で、次のように書きました。
私にとって、言葉、文字、活字の連なりは、もつれているものが並んでいるものなのです。
だから、読むことができず、眺めているしかない。極端な言い方をすると、そうなります。
言葉(音声)であれば、流れ出ることもあるでしょう。手書きの文字であれば巧拙はあっても線状というよりも直線状の文字列としてあります。活字であれば、整然と組まれています。
どれもすっきりしているのです。声として、音として、書いた文字として、印刷された、あるいは画面に浮んだ活字として、すっきりとしているし、澄ましているのです。
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何事もなかったように、澄ましている――。
でも、そうでしょうか?
言葉が言葉以前、文字が文字以前、活字が活字以前であったときを想像すると、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃしていたのではないでしょうか?
人の頭の中は、すっきり澄ましているものではないはずです。言葉の中に言葉があるという言葉のありようもまた、すっきりと澄ましているはずがありません。
ごちゃごちゃぐちゃぐちゃしていたはずの頭の中で、人は言葉の中に言葉があるという、もつれてこじれてもいるだろう言葉を相手にしているのです。
それは、あなただけのことでしょう、と言われれば返す言葉がありませんけど……。確かに、そうなのかもしれません。
いずれにせよ、そんな錯綜とした状態のさなかに、「何か」に、それとは「まったく別の何か」を当てた結果が、言葉であり、文字であり、活字なのではないでしょうか?
二つのまったく異なるもの同士を当てるのです。それは(次に述べる)二択という作業を経ます。
というか、私にはそう感じられます。
*人は一度に二つの言葉を口にできない
言い方を変えます。
線上に進んでいる線状のものがあるとすれば、それは、たとえば言葉(音声)であり、文字であり、活字なのでしょう。
水もそうでしょう。道もそうかもしれません。植物の成長もそんな感じがします。時間もそうである気がします。
今述べた、水、道、植物、時間が、重要な要素として出てくる小説を書いた作家に藤枝静男がいます。
私は、藤枝静男という作家の存在とその作品を、蓮實重彥の批評から知りました。詳細をお話しする余裕がないため、以下の文章を引用するだけにとどめます。
「あなたは近くて遠い、まぼろし」という記事でも引用したものです。
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「書き手は多から一を選びとり」の「多」というのは、言葉以前のごちゃごちゃぐちゃぐちゃであり(自分の頭の中のことです)、同時に、言葉の中に言葉があるという、もつれてこじれた言葉のありよう(自分の外にあるもの、つまり「多=他」のことです)でもある、と私は勝手に理解しています。
話すとき、そして書くときに、私たちが最終的に一つを「いまここ」という現在で選択しなければならない瞬間、私たちはその選びそうになっている「一つ」(すっきり)と「多=他」(ごちゃごちゃ・もつれとこじれ)の二択での選択を余儀されているのではないでしょうか?
その二択の結果が、すっきりと澄ましている外に出た言葉であり、文字であり、活字の連なりなのです。
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私は蓮實の上の文章を読みかえすとき、ある偽の記憶と思われるフレーズを思いださずにはいられません。
人は一度に二つの言葉を口にできない、発音できない、ひょっとすると、人は一度に二つの言葉を書けない、だったかもしれませんが、そんな意味のフレーズを蓮實がどこかで書いていた気がするのです。
あちこち本を見ながら、ときおり探してはいるのですが、その「どこか」が「どこ」なのか皆目見当がつかないでいます。
曖昧な記憶からの話で申し訳ありません。でも、私にとっては、そのフレーズが今いちばん気になるものなのです。
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なんだか、あちこちに向いた断片を積み重ねた記事になりましたが、どうしても書いておきたかったので書きました。
ここまでを読みかえしてみましたが、ぜんぜん線上にも進んでいないし、線状でもない話の記事ですね。でも、活字としては、始まりの一文字があり、終わりの一文字があり、その途中がずらりとあるのです。
活字の連なりだけを見れば、すっきりとして澄ました表情をしています。文字とは不思議なものです。
目の前にある文字たちは自分から出たのでしょうが、自分から離れたもの、つまり「外にある外」だとしか思えません。
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作者と呼ばれている人にとっても、書いているさなかであろうと、書き終わったと宣言した後であろうと、文字と文字列は「外にある外」なのだと私は考えています。
「外にある外」であるものに、始まりと途中と終わりがあるとは思えません。全体など見えないし、俯瞰もできないにちがいありません。
*絵を眺めるように小説を眺める
話を少しだけ変えます。
始まりと途中と終わりがないものに自分が惹かれることに私は気づいたわけですが、振りかえれば、これまで私が「あれよあれよ」と呼んでいた感覚のことではないかという気がします。
「あれよあれよ」というのは、「いまここ」であり、それでいて「いま」でも「ここ」でもない感覚です。「いまここ」と考える余裕などないのです。
前のことや後のことは頭にありません。ただ自分が運ばれていくという感じだけがあると言えば、おわかりいただけるでしょうか。
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私がそれを感じるのは、たとえば小説です。私にとって、小説は絵に似ています。絵を眺めるときには、始まりと途中と終わりを考えることはないと思います。
絵は静止したものですが、眺めている者は流れの中にいます。少なくとも私はそう感じます。
複製がほとんどなのですが、私が絵を眺めるときには、絵が描かれているさまが浮んできます。誰が描いているのかはわかりません。点と線と面と色が、息づかいとともに流れとして浮んできます。
どこか遠いところを流れている時間の中にいる気がします。ここではないどこかにいる気もします。
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小説を書くときには、始まりと途中と終わりのないものを相手にしているのではないでしょうか? 前にもどったり、考えこんだり、場合によっては、しばらく席を外したりするのではないでしょうか。
自分の乏しい経験からしても、たとえ短編であっても、一気に書いて完成する、なんてことはない気がします。
一度書いた部分を何度も何度も読みかえす、いったん書き終えたものを何度も何度も読みかえす。ああでもないこうでもない、ああだこうだ。部分的に、あるいは大幅に、直す、削る、足す。直すことは、文字に別の文字を重ねること。消して塗りかえること。最初から書き直すこともある。ずいぶん前に書いた原稿に手を加えることもある。
絵と似ていませんか?
一度描いた部分を何度も何度も眺める、いったん描き終えたものを何度も何度も眺める。ああでもないこうでもない、ああだこうだ。部分的に、あるいは大幅に、直す、削る、足す。直すことは、描き直したり塗りかえること。最初から描き直すこともある。ずいぶん前に描いた絵に手を加えることもある。
「書く」と「描く」は似ていると思います。私にとってはそうです。あと、「掻く」もそうだという気がします。それは冗談ですが、「書く」と「読む(私にとっては「眺める」)」、「描く」と「眺める」も似ていると思います。始まりと途中と終わりがないものを相手にしているところが似ているのです。
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「複製でしかない小説(複製について・03)」でも紹介した、以下のドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の自筆原稿を眺めながら、以上のようなことを考えていました。
私が若いころに数年かけて日本語で読んだあの小説が――新潮文庫でした――、こんなふうに書かれていたのです。
ドストエフスキーは、どれほどの時間、年月をかけて、どんなふうに書いていたのでしょう。直しはどれくらいしたのでしょう。
そもそも各部分、つまり細部を書いているさなかのドストエフスキーは、完成された作品全体を見通していたのでしょうか? 作品は外に外としてあったのだろうと想像します。その外にある物(異物と言ってもいいでしょう)を眺めながら書いたし描いたのだろうと想像します。
ドストエフスキーなんだからとか、天才なんだから、といった安易な魔法の言葉を持ちだして考えることを停止したくはありません。
凡人は凡人なりに、あくまでも自分の問題として考えてみたいと思っています。書くときには自分一人で書くのですから。
人は一度に二つの言葉を口にできない、一度に二つの言葉を書けない……。一度の人生で、一つの物語しか紡げない、一冊の書物しか書けない。
その物語を聞くものは、おそらく物語以外にいない、その書物を読むものは、たぶん書物以外にいない。
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