「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」(連想で読む・01)
川端康成作『雪国』の冒頭の段落を引用します。
国
「国境」(くにざかい)と言えば、国境(こっきょう)を連想しないではいられません。私自身「くにざかい」という言葉を日常生活でつかった記憶はありません。県境(けんざかい)ならつかいます。
たとえば、岐阜県だと飛騨と美濃の国がかつてあって、いまは飛騨地方と美濃地方と呼ばれています。
飛騨の北には越中国(えっちゅうのくに)があり、それがいまは富山県と呼ばれ、かつては国境があって、いまは県境があるということです。
岐阜県と富山県だと車をつかう場合には、峠を越すことになります。高速道路だと長いトンネル(10キロのものもあります)をいくつか抜けていきます。
境
境という言葉は、いろいろなイメージを呼びおこしてくれます。基本は、二つのものに「またがる」感じ。
またがる、跨がる、股、又
こえる、越える、超える
かかる、掛かる、架かる、懸かる
わたる、渡る、渉る
「国境の長いトンネルを抜けると」では、トンネルですから「ぬける」があります。細長い穴(隧道)をくぐり抜けるわけです。
ぬける
ぬける、抜ける、くぐり抜ける、くぐる、潜る、もぐる、潜る
この作品の展開を知っていると、「くぐり抜ける」というイメージがふさわしい気が私にはしますが、初めて読んだ場合にはそうした印象は受けないだろうと思います。
私自身初めて『雪国』を読んだときに、この冒頭の一文をどう受けとめたかは覚えていません。
いまの私には、島村がくぐり抜けるという感じの過去を背負った人物に思えます。ぼうっとしているようで、なかなか抜け目ないところのある男性です。
またぐ
そういえば、島村はまたいでもいますね。いろんな意味で。
川端の小説では、ある女性があらわれると、それに重なるというか、かぶる形で、もう一人の女性がいる場合が多い気がします。ある意味二股です。
この小説では、駒子と葉子ですが、駒子に会いに行く目的で乗った汽車に葉子がいるという冒頭の設定からして、すでに二股を予告しています。
その葉子が闇を背景に鏡と化した汽車の窓にうつって、二重写しになる美しいシーンがありますが、鏡と写し(コピー・片割れ)のイメージが、この作品の基調をなしているようです。
ストーリーはかなり違いますが、『古都』では鏡と写しのイメージが頂点に達している気がします。
*
いま述べたイメージについて『雪国』を論じ、『古都』にも触れた「夢のからくり」という記事があります。このアカウントをつくって初めて投稿した文章です。よろしければ、お読みください。
国
・「雪国であった。」
「国境」の「国」と「雪国」の国は、同じ「国」という言葉と文字がつかわれていながら、その意味合いは異なる気がします。
「雪国」の「国」は、いまは県である「国」とは違います。行政区分的な意味合いがないという意味です。
文字どおりの「雪の国」、つまり冬になると雪が降って積もる国という意味ですから、この「国」という言葉には、「土地」とか「故郷」というイメージを私はいだきます。
「雪国」の「国」には「○○ランド」という言い回しの「ランド」にも似た響きを感じます。わくわくするのです。
*
「お国はどちらですか?」
東京での大学生時代に、よくそんな質問をされたことがありました。いまでも、そういう言い回しがもちいられているのかは知りません。いずれにせよ、昔の話です。
里
国には「さと・里」という語に近い響きも感じます。
そういえば、「故郷(ふるさと)」(作詞:高野辰之、作曲:岡野貞)という唱歌があるのを思いだしました。
ひらがなで書くと、綺麗にそろった音の数が見えます。ふだん目に付かない音はこうやって文字にすると見えることがあります。
上ではルビを施された黒々とした漢字が、下ではぽかりとあいた空白が、目立ちます。「ない」は意外と目に付くものです。
文字と言っても、漢字まじりと平仮名だけとでは印象がぜんぜん違って不思議です。私には別物に見えます。
「故郷(ふるさと)」は、私のなかでは上の漢字まじりの表記では入っていない歌です。ずいぶん長いあいだ意味不明だったのです。口ずさむたびに音だけが自分のなかで流れていました。
くちずさむは「口遊む」とも書くのですね。最近知りました。ちなみに、「すさむ、荒む、進む、遊む」なんだそうですが、どうしてこうなるのでしょう。
幼い頃に歌い覚えた唱歌や、聞き覚えた昔話は、音と声だけが身体に染み込んでいるために、こうやって文字にしてみると目まいを起こしそうになるほど驚くことがあります。
雪の里
話をもどしますが、「雪国」を「雪の里」としてみると面白いかもしれません。字面が良さそうですから。
「国境の長いトンネルを抜けると……」、いや、駄目ですね。
やっぱり「雪国」です。「ゆきのさと」では間延びして語呂が悪いのです。見た目はいいのですが。
ところで、「郷」を「さと」と読む場合もありますが、「郷・ごう・きょう」には「いなか・むら」という語義もあり、興味深い語だと思います。私の語感だと、いなかという意味の「ざい・在」に似ています。
*
故郷に似た郷土(きょうど)という言葉がありますが、きりりとしたたたずまいを感じます。郷士(ごうし)を連想するからかもしれません。
故郷(こきょう・ふるさと)というふうに両方の読みがあるのではなく、郷土は音読みするだけだから、という気もします。
しょせん慣用の問題なのでしょうが、音読みと訓読みとではその語の印象ががらりと異なります。
郷土・郷士――。言葉と文字では、見た目も音のどちらも大切な要素です。ひょっとすると意味よりも大切かもしれません。
「同じ」かどうかではなく「似ている」かどうかの世界、つまり印象の世界に、人は生きているのですから。
雪国
「雪国」とは、もはやこの作品を指す固有名詞と言えます。
国語辞典で「雪国」を引くと、「雪国(作品名)」というぐあいに別の見出しがあるくらいです。
そのために、普通の名詞として雪国という言葉をつかったとしても、川端康成の作品のイメージが付きまとうにちがいありません。
それにしても、「雪国」という二文字に自分の生きた刻印をのこすなんて、うらやましい話です。
長い
・「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
この文では「長い」だけが飾り、つまり修飾語です。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
国境のトンネルを抜けると雪国であった。
「長い」というたった二文字の短い形容詞があるとないとでは、印象がかなり違います。
こういう些細なとも言える細部が、作品を引き立てています。
国境の長いトンネルを抜けると (14文字)
雪国であった。 (7文字)
分けるとすれば上のようになるのでしょうが、音読するときにも、そこで一瞬、間があきます。長いトンネルを抜けてきたように、一息入れる感じ。すると、そこに「雪国」というわくわくが広がる。
どきどきする白い夢のような物語がはじまる。
*
こじつけた読み方をして、失礼しました。
なにしろ、これはそこそこ長い作品の冒頭の第一文なのですから、作者がなんとなく書くことはなかっただろうと想像します。苦労なさったにちがいありません。
あまりすらすらと書き進めると、筆がすさみます。すさむ、荒む、進む、遊む。なるほど。急いては事をし損じる、ということでしょうか。
この連載はゆっくり進めることにします。
二十一文字
・「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
約物である句点も入れると二十一文字のセンテンスをめぐって連想を重ねてみたのですが、話は尽きそうもありません。
(つづく)
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