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うつろう かげろう
見出しの付いた各文章は連想でつなげてありますが、断章集としてお読みください。どこからでもお読みいただけます。
*言葉を転がす
映る、鏡に映る、水面に映る、瞳に映る、壁に映る、スクリーンに映る
映る、見える、眺める
映す、鏡に映す、水面に映す、瞳に映す、壁に映す、スクリーンに映す
映す、見る、観る
映してみる、映しみる
映して見る、映し見る
移して見る、移し見る
うつしみ・現し身、うつしよ・現世
うつせみ、空蝉、現身、虚蝉、現人
*言葉を呼び出す
映る
影が映る、影を映す
影、姿、形、像、映像、影像、肖像、肖像画
残像、実像、虚像、現像、現象、仮象、印象、心象
影が見える、影が現われる、影を落とす
影が濃い、影が薄い、影が長い、影が短い
影を残す、影が残る、影を消す、影が消える、影がなくなる
影がない、影がある、影のある顔
影を目に浮かべる、影を思い浮かべる、影を思い描く、影を思い出す
おもかげ・面影・俤
面影をとどめる、面影がある、面影を追う、面影を求める、面影を探す
面影に立つ
影が消える、姿が消える、姿を消す、形がなくなる、形無し
影が増える・殖える、影が目に付く、影が離れない、影が付きまとう
影が付く、影が憑く、影に付く、影に憑く
*影が増える
いま実感としてあるのは、影が増えつつあるという思いです。映像と文字のことです。私には文字が影だという気がしてなりません。
いま目の前にあるのも影です。画面に並ぶ影たち。どんどん増えています。自分で書いていきながら、増えていますなんて、世話ないですけど。
影は増えるように見えても、増えるわけではなさそうです。映る影には実体がない気がします。
光を受けて影を作る物の有無ではなく、影というもの自体の有無のことです。影自体の有無。影の実体。影の実態。
あたりを見まわすと、人工ではない影があちこちにあります。影の薄い影もあれば、濃やかな影もあります。
陰(日陰)にも影があって驚きますが、驚くのは言葉の綾のせいでしょう。思いには言葉の影が色濃く差しているようです。いったん言語を覚えると、人はもっぱらその陰の下で生きることになるのかもしれません。
言の葉の陰から草葉の陰へといつかうつりゆくなんて、いいイメージだと思います。冗談ではなく。
葉はその陰にいるものを守ってくれる。そのお陰で、守られるものは他のものを思いやり見守ることができる。
*言葉の影
もっと言葉の影と戯れてみましょう。
うすばかげろう――「薄羽蜉蝣」のほかに「薄翅蜉蝣・蚊蜻蛉」とも書くそうです――は光を受けて影を落としますが、そのはかなげな昆虫が地面に落とす影そのものには実体がないということでしょうか。
やはり昆虫ですが、かげろう(蜉蝣・蜻蛉)の落とす影にも実体がないのでしょうか。
かげろう(陽炎)――糸遊とも言いますね――は日を受けて影を落とすのでしょうか。物ではない現象にも、影はあるのでしょうか。
虹やオーロラや蜃気楼にも影はあるのでしょうか。
ゆらゆらとした空気のゆがみが地面にかすかながら大きな影となって揺れているさまが目に浮んでくるようです。そうやって目に浮ぶものこそが影なのかもしれません。
影はヒトだけに見えるものかもしれない、つまり「影というもの」を見分けて言葉で分けて名指しているのはヒトだけだろう、という意味です。実際にはないものもあるだろう――ヒトの頭の中だけにある――という意味でもあります。
*かげろう
「蜻蛉」と「陽炎」を訪ねた辞書に、やはり「かげろう」と読む「陰郎」という言葉が載っていました。その語義にあった「陰間(かげま)に同じ」(広辞苑より)という記述に惹かれたので、見に行ってきました。
そこに「蔭舞(かげまい)」という言葉があったのですが、その字面を「蔭に舞う」と勝手に読み、哀れに思いました。「まいこ・舞子・舞妓」を連想したのです。
気になって「まいこ」を訪ねたところ、「歌舞伎」という文字が見えて戸惑いを覚えました。歌舞、つまり「歌と舞い」と「かぶく」が重なっているからです。どういう経緯からそうなったのでしょう。広辞苑には「歌舞伎・歌舞妓」と「歌舞伎」の二つが別個の見出しにあるのも興味深いです。両者は系統が異なるようです。
歌舞伎、かぶく・傾く、傾げる、傾ぐ
「かぶく」という言葉には影と蔭と翳が感じられます。動くのですから、動きにつれて陰翳が生じるのは当然ですけど。
舞踊ではよく首を傾げる動作がありますが、あれは伴奏される音楽の間(ま)で決めるように出てきます。一瞬止まるのです。あれも影ではないでしょうか。音もなく、よぎるのです。
動から静へとうつった瞬間にさっとあらわれて消える影という感じで好きなのです。ある空間を占める影が時間の中で身をひるがえすときに、人にはそれが間として感じられるのかもしれません。
動きを目にしているさなかには、影としてつぎつぎと消えていく動きを目で追うのに忙しくて動きのかたちが見えていない。不意に動きが止まった瞬間に動きが姿をあらわし見えてくるのではないでしょうか。
*影がやどる
影というものの実体は、影が映っている場としての物なのかもしれません。影が物に場所を借りるという感じ。仮そめの宿なのです。
というか、影がその場や物(場合によっては生き物や人)に取り付いて、そこで振りを装い、振りを演じるのです。宿主である物とは別個に振りを演じるのです。顔と表情の関係に似ています。
そう考えると表情も影だと言えそうです。仮そめのものなのです。
影はあくまでも借りた姿であり仮の姿。「とりあえず」とか「たとえば」という感じで、常にうつろいのなかにある。いつまでも、その姿形であるわけではない。
その意味で影は水に似ている。雲にも似ている。雲は水の仮そめの姿なのですから、当たり前ですね。生き物の体内にも水があります。生き物は器なのでしょう。となると、この星は無数の器をかかえた巨大な器だと言えそうです。
うつろい、うつろう、うつる、うつし
移ろい、移ろう、映ろう、移る、映る、写る、写し
うつろ、空ろ、洞ろ、虚ろ、うつわ、器
うつしみ・現し身、うつしよ・現世
うつせみ、空蝉、現身、虚蝉、現人
*影の振り
影は振りを演じるのですから、「ある」というよりも「みえる」のでしょう。「影の振り」から影絵を連想します。
振りというのは、影絵だけでなく、雲の形やパントマイムにも近い気がします。振りもまた、影のように物に付き、取り付き、その場を借り、そこで振りをする。「振りをする」というより、振りを装う、振りを演じるという感じでしょうか。
付く、取り付く、場を借りる、仮の宿とする、かりそめ
振りをする、振りを装う、振りを演じる
ふうをよそおう、風を装う
「ふり・振り」には「風」という漢字を当てることもあるそうです。なるほど、影が「振りを装う」と考えると、影が風(かぜ)に似ている気がしますが、気のせいでしょう。私は暗示にかかりやすいのです。
気のせいといえば、影と風と気は、似ていませんか。とっかかりがなく、とりとめのないところが似ている気がします。
取り掛かり、とっかかり、取り留め、とりとめ、取り付き、とっつき
気分、気配、天気の「気・き・け」なのですが、実体感が希薄に感じられます。本体とかご本尊がどこかにあって、その一部というか、ある特性だけが遊離して別のところに「あらわれる」感じです。得体の知れなさがあって、どこか不気味でもあります。はっきり言って恐ろしいのです。
*かげろう、うつろう
ゆらぐ、揺れる、振れる、ぶれる、うつろう――こうやって言葉を転がしていて連想するのは、やはり「かげろう」です。辞書で目に付く言葉を抜きだしてみます。
陽炎、蜻蛉、蜉蝣、蔭郎
影ろふ・陰ろふ
かげろう、かげろふ
うつろう、うつろふ
うつろうものは、どうしてこんなに人を惹きつけるのでしょう。
映る、鏡に映る、水面に映る、瞳に映る、壁に映る、スクリーンに映る
うつる、うつす
個人的な思いを言いますと、「うつす」よりも「うつる」のほうに惹かれます。そして「写」よりも「映」のほうに惹かれます。
*映、写、移、遷
映る、映す、写る、写す、移る、移す
映、写、移、遷
「映」には、実体のなさというか、はかなさを感じます。「うつる」ことで何かやどこかにくっ付いても、すぐに離れていくイメージ。付いた物や場に執着しない。物の影という感じ。
「写」には、何かやどこかにいったんくっ付くと、なかなか離れないしぶとさがあります。ときには「憑く」までいく感じ。あと、写本のように苦労して絵や文字をせっせと写すイメージもします。一生懸命だし必死なのです。力が必要な気もします。
要するに「写」は複製なのです。「映」と同じく物を映した影でもあるのでしょうが、影の影をつぎつぎとせっせと写していく感じ。写真、複写、転写。同じことをきちんとくり返さなければならない厳密さと窮屈さもあります。
そういえば、漢和辞典で「遷」を訪ねていてはっとしたことがありました。
「もとの場所・地位をはなれて、中身だけが他にうつる」「魂が肉体からぬけて、自在に遊ぶようになった人。仙人。」(漢字源・学研)
「はっとした」のは司馬遷という名前を連想したからです。あれは本名なのですよね……。
遷移、左遷、遷都、遷宮――。写と映にはない「うつす・うつる」を感じます。勉強してみたいです。
*消える影を追う
映画では、スクリーンに映る影はどんどん消えていきます。観ているほうは、消えていく影をつぎつぎと残像として記憶にとどめなければなりません。追いかけっこなのです。
影は消えていくものですから、目でとらえたり、追うのであれば時間に拘束されます。その意味では話し言葉と似ています。音声はつぎつぎと消えていくものをつかまえて、連続した思いとしてとどめなければなりません。
映像も音声も、消えていくものを追いかける形でとらえ、それを連なりとして思いの中にとどめるのでしょう。映像ならある程度の幅のある帯として、音声であれば細い紐としてとどめるのかもしれません。
そうした連なりは線であるはずです。曲がったりからまっていても、伸ばせば直線状になるのではないでしょうか。
連なった思いを記憶と呼ぶのでしょうが、その連なりはびりびり破れたり、ぷつぷつ切れるはずです。自分を観察しているとそうとしか考えられません。私の記憶は布にたとえれば破れて穴だらけだし、紐にたとえればところどころが途切れています。
記憶には映像や風景もあれば、声や音楽や音や話の切れ端もあります。どれも断片に感じられるのは、人の意識には枠があるからでしょう。人は枠の中で生きているようです。
だから、楽曲も話も消えていく音声を追いかけなければ鑑賞できません。追いかけなければならないのは、「いまここ」という枠の中におさめる――意識のことです――ためです。もちろん、コンサート中や寄席で落語を聞いている最中にトイレに立てば、そこだけ抜けます。
すっぽり抜けたところがあっても、そこがいつの間にか埋まっていることがあります。連なるものにそなわった勢いというか流れのなせるわざです。勝手に埋まってしまう感じ。
話にも音楽にも流れがあります。ストーリー、旋律・メロディー、節――。方向性というか筋道があるから記憶されるのでしょう。
幼い頃に歌い覚えた歌詞が思いだせないときに、最初から歌ってその部分を知ることがあります。言葉の流れというか旋律というか、線状で自分の中に入っているものの不思議さをしみじみと感じます。
自分の中には自分ではないものが生きて住んでいるようです。きっと人は場というか巣なのです。
住む、棲む、栖む、棲、栖、巣
*複製感
写真は、文字に似ています。処分しない限り、消さない限り、残っている。しかも、映画のように時間を拘束されることなく、自分のペースで眺めていればいい。
写真は複製感が強いですが、その意味でも印刷された文章に似ています。複製感という点では、そして時間の拘束という点でも、映画は音楽と似ていますが、写真の集まったものが映画という気はしません。
製作・手直し、撮影・編集、執筆・編集。
公開・上映・上演・投稿・配信。
複製・写し、拡散・配布、保存・継承。
*複製、代り、影
時間の拘束――
ある:映画、動画、音楽、音声、話。かつてはみんなでいっしょに観たり聴いたもの。相手がいて、仲間がいた。自分勝手は許されなかった。いまではそれが変わってきている。
ない:写真、文字・文章。もともと自分だけで自分のペースで見ればいいし、読めばいいもの。
複製感――
ある:写真、文字・文章。もともと自分だけで自分のペースで見ればいいし、読めばいいもの。
ない:映画、動画、音楽、音声、話。かつてはみんなでいっしょに観たり聴いたもの。相手がいて、仲間がいた。自分勝手は許されなかった。いまではそれが変わってきている。
ポータブルでパーソナルな再生装置である蓄音機とレコード、録音機と録音テープ、録画装置と録画テープが、時間の拘束という問題を複製と再生という代理物で解決した。
代理物、代り、影。
一人ひとりが影(代り)で満足する時代。影で済ます時代。時間に拘束されずに一人ひとりが自分のペースで影を楽しむことができるようになった。
一方で、楽しむ影が増えすぎて、影を楽しむための時間に拘束されるようになった。複製は増えることで人を縛る。
*持ち運べる一人だけの影
ポータブル、パーソナル
持ち運べる、一人だけのもの
眺めるために人が作った影――影像や文字のことです――が、いまでは個人に付くようになったようです。こうなると、どうしても板の話になります。複製は板と親和性があるのです。
板
板、ボード、盤、版
ばん、ばん、ばん
板につく
付く、附く、着く、就く、即く、憑く
くっつく、ひっつく、とっつく
板をつく
突く、撞く、衝く
板をなで さらにつついて 影を出す
影にらみ つまずくさまが 板に付き
*板に付く
「板や盤に付く」となると、プレイの話にもなります。
板・ボード・画面と、プレイ(play)との親和性も無視できません。
play という身振りは、見る側や相手がいて成立します。
・play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
・play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。
ようするに、振りをしているのです。振りを、流れや筋や進行と言い換えることもできるでしょう。
(拙文「人が物に付く、物が人に付く」より)
*かげろうの日記
とりとめのない話に、ここまでお付き合いくださり、どうもありがとうございました。
いま青空文庫でこれを読んでいます。和語のつらなりが心地よいのです。画面に映った影で読むのもいいものですね。