人間が作った非連続な時空間を「接続する」建築物のちからー隈研吾展を見て学んだ、建築にできることー
先日、隈研吾展ー新しい公共性をつくるためのネコの5原則ーに行ってきた。建築についてど素人であり、隈研吾さんは木を基調とした素晴らしい建築物を作る人、という認識程度で、どんなことを考えている人なのか全く知らなかったから、興味が湧いて個展に足を運んだ。
あまりに壮大で、奥深い大量の建築物と、綴られた言葉の含蓄に圧倒された時間だった。僕が見ている彼の建築物はその実在としての側面にすぎなかったことがわかった。この展示会を通してその奥に眠っている、造形物の奥深い思想の側面を垣間見ることができた。
隈研吾さんの思想や作ってきたものについての知識は全く皆無だが、個展の中で取り上げていた概念の解釈を文章化してみようと思う。
隈研吾さんが展示で掲げていたキーワードは「孔」「粒子」「やわらかさ」「斜め」「時間」の5つだ。各テーマにそれぞれ10以上の建築物が説明とともに配置されている。一見全ての概念は建築において「別々に機能している」かのように見える。
僕の勝手な解釈だが、その5つの根底には、「近代が作ってきた境界線を曖昧にし、建築物が時空間を接続する」という意思が流れているように思えた。
全て意味合いの異なる概念だが、実は全てが本来は同一化・融合しうる概念であるのだと感じた。今日のnoteでは、隈研吾さんが提示していた5つの概念の根底に流れる一つの思想について、考えを巡らせていきたい。
実はこの展示会、第二会場で5つの原則から相当なジャンプがある概念が提示される(それがネコの5原則)のだが、本会場の5原則の理解で頭のメモリを使い切ってしまったので割愛します。(そちらの展示もすごく良かったです。)
非連続な時空間を滑らかな連続的な空間に変換する「孔」としての建築物
隈研吾さんにとって建築物は、非連続な時空間同士を「つなぐ」、「孔」としての実在的な物体なのかもしれない。「里山」と「人工物」という、お互いに性質の異なる非連続で断続的な境界面に「孔/Hole」として機能する建築物を建てることで、その建築物が両者に橋を架ける。その建築物という橋により、両者は時空間全体で見た時に非連続ではなく、連続的な時空間が創造される。
その非連続な断絶の接合点としての「建築物という実在」を、建築家は創造している。
その「孔」を通ることによって、本来認識されるはずの時空間の断続性は忘れ去られ、「人工物の世界」から気付かぬうちに「里山の世界」に入っていくことができる。その切り替えはもはや意識されることがない。両者を滑らかに接続するう「孔」を通るからだ。
この発想は「建築物の内部」にも適用される。建築物の中にはたくさんの役割を持った空間があるが、そのおのおのを「独立させる」のではなく、「孔」を通して接合するという空間設計について触れられていた。
建築物内の空間と空間の意味を接合する「孔」。そして、天と地、自然と人工を接合するものとしての「孔」という二つの意味合いを持っていた。
時空間に存在する全てのものを「等価」にとらえる「粒子」の概念がもたらす、建築物の連続性
正確な文章ではないが、隈研吾さんは「時空間における全てのものの区別がなくなった状態を、『粒子になった』」と表現するという。粒子として実在的な物体が全て捉えられた時、そこには「建築物」と「道路」、「建築物」と「背景」といった境界線は消失する。その全ては「粒子」という等価な単位で形作られる時空間でしかないのだ。
普通「建築物」と聞くと、時空間の中に存在する確固たる実態を持ったものを想像する。「建築物」というイメージは、そこに周りのものと分離した何かを思い起こさせる。「公園の中の建物」「街の中のビル」と表現されるように、建物やビルはある種独立した実在として、世界に横たわる。
では、隈研吾さんが作る建築物は「粒子になる」とはどういう意味だろうか?
僕は、他の時空間から切り離されたものとしての「建築物」ではなく、建築物もあくまで他全てのものと等価な「粒子」としてそこに在る状態を指していると解釈した。つまり「粒子として建築物」を作ることが可能ならば、その建築物はもはや角ばった「モノ」ではなく、「ただ流れゆく空気」のようなものになる。その建築物は本当の意味で自然と「溶け合う」ことができる。水も食塩水も人間には区別がつかないように、どちらも同じ粒子の集合として解釈される。
人はその建築物を他の時空間と独立した存在としてではなく、全て等価な粒子の一部と見なすようになる。その場所においては、「建築物」と「その周りのもの」と言った境界線は消え失せるのだ。
物体本来の「やわらかさ」の追求が可能にする、建築物と外の世界の「連続性」
建築の世界で使われているものにおいて、人間は身の回りのものはできるだけ柔らかくなるように変化してきたという。家の骨格や外表は鉄鋼などの硬いものを使うが、中の家具には木を使い、そして机の上には紙を置く。距離が近くなるにつれて柔らかくなっている。
建物の中で人間のすぐそばは柔らかく、建物の外表に近づくにつれて硬くなっていく。そして外の世界には柔らかく、連続的な自然・世界が広がっている。「柔らかいもの」は人間と自然という距離の間に、連続的なグラデーション構造を実現する。
もしそのグラデーションの粒度が「あたらしい柔らかいもの」によってさらに上がったら、「建物」と「外の世界」の間の硬度の違いは小さくなるかもしれない。これはどういう意味だろうか?
例えば、硬さレベル1が建物の中の人間のすぐ側のもので、外に向かうにつれ硬さレベルは上がっていくとしよう。そして建物の外表に到達すると硬さレベルは100になり、そこからすぐ外の世界の硬さレベルは1に戻る。100から1になるその急激な変化が、非連続な時空間を表出させる。
でももし、外表に硬さレベルが5だった?その場合、100から1ではなく、5から1の変化にかわり、建築物とその周りの空間との接続はもはや「連続的なもの」になれるのかもしれない。
「新しいやわらかさ」をもってすれば、もしかしたら「建築物の外表」という概念すら変化させられるかもしれない!この意味を頑張って説明してみる。
僕は上記の記述で、「硬さが建物の外表に向かってより高くなること」を前提とした。それは、「建築物にはウチとソトを切り裂く確固たる境界線の存在」を前提をしているということだ。
人を中心にして硬さレベルは上がっていき、外の世界でそれは放棄される。しかし建築物の存在により時空間は非連続になってしまう。
その前提を、「なめらかさの粒度」をあげるものがあれば、覆すことができるかもしれない。先の例で言うと、やわらかさレベル5までの材質を用いて、「人間が安心して住める家」を作れるかもしれない。それは単なる硬さだけではなく視覚的な硬さも含む「やわらかさ」だ。
もしそれが可能なら、「建築物の外表という境界線」の概念を変えられるかもしれない。建築物にはウチとソトの境界線があるのではなく、「硬さの極大点」という意味での「接合点」があるだけだ。その建築物には「ウチでありソトである」ような空間が広がっている。
その建築物には確かな外表はなく、硬さレベル1から外の世界に向かって少しづつレベル5に向かっていき、そこからいきなり外の世界のレベル1になるのではなく、4、3、2、と下げていき、気づいたらレベル1の外の世界にいるような場所だ。
「やわらかい」の追求の果てに、そんな建築物が待っているのかもしれない。
「対立」や「断続」ではなく、建築物に「斜め」を導入すること
建築物は「建」という字が意味するように、土地の上に創造される。建築物ができることによって、土地という滑らかな地表面に突然「盛り上がり・凹凸」ができる。たくさんの建物を建てれば立てるほど、空間の地表面の非連続性は高くなっていく。
例えば、東京の街にはたくさんの建物が立っており、もはや連続的な地表という状態は想像できない。無数の建物によって地表の非連続性は最大化されている。
だけどもし、「突然の地表の盛り上がり」として建築物ではなく、緩やかな盛り上がりを成す「斜め」をうまく導入した建築物があったらどうだろうか?それが隈研吾さんの問いだと思った。
「斜め」を導入した建築物だとしてもその街は建築物によって確かに「時空間の断続」は生じてしまう。でも、「斜め」だから幾分か連続性が担保できる。
地表に目を走らせて突然高さ10m分、視線をずらすのではなく、1m、2m、3m、、、、10mといった連続的な地表の盛り上がりの変化を「斜め」は可能にする。
「ヘーゲルの弁証法」「対立」「アウフヘーベン」を、「斜め」の概念が書き換えていくことについても個展では触れられていた気がするのに、忘れてしまった・・・・・悔しい・・・・・。覚えている人がいたら教えてください。
「街」や「土地」の時空間的な連続性を「継承する」建築物
長くなってしまったが、最後に掲げられていたテーマは「時間」だ。ここが一番最後だったので、集中力が低かった。ただでさえ曖昧な記憶がさらに曖昧だ。拡大解釈にすぎるかもしれない。
当たり前の話だが、時間の経過とともに建築物は老いる。どんどん脆くなっていき、見た目も荒んでいく。そして最後には「取り壊される」。時間とともに滑らかに老いていった建築物はある日突然「完全に死ぬ」。
空間が、時間の連続的な変化に対して、非連続的に変化することになる。そういった空間の断続性をもたらす「建築物」ではなく、時空間が一体となって滑らかな連続性を実現する「建築物」とは構築可能なのだろうか?そんな深い問いを、作品を眺める中で感じた。
その一つの答えとして「時間の流れを継承した建築物の創造」がある。リノベーションとかもその一種である。もともとその建築物が時間の堆積とともに培ってきた空間的な連続性を放棄して「全く異なる建築物」を作るのではなく「時間を継承した建物にリノベーションする」。それによって時空間の連続性は担保される。
土地には、その土地特有の時空間の流れがある。京都の街並みなどはその最たる例だが、もし京都の街に東京にあるような高層ビルを100個作ったら、確かに働き手は増えるかもしれないが、京都という街並みがこれまで形作ってきた時空間の連続性は喪失する。京都の街は少しづつ連続的に変わるのではなく、非連続に断続した街に変わってしまう。
実は「建築物」というものは、そういった土地や街の記憶という壮大なものも形作っている。
土地の記憶というものの接続を、断続的なものではなく、いかに連続的なものにするか?それはその土地を更新する建築家たちの腕にかかっているのだろう。
建築物には、土地の連続性すらも放棄することができるというおそろしい力がある。しかし一方で、何百年、何千年とその土地・街の時空間的な堆積物を継承し続ける可能性も秘めているのだ。その時空間の美しさを守るもの、壊すのも、建築物なのかもしれない。
建築物という「時空間の断続性の発生源」から解き放たれた「連続性」を可能にする「接続物としての建築」
さて、前置きが長くなったがこれまで取り上げた5つのキーワードは全て繋がっていて、究極的には同じことを言っているように見えた。僕の知識不足からだ思うが、全ての作品に、全ての原則の片鱗を僕には感じた。
例えば、「やわらかい」のテーマの展示たちが、「なぜやわらかい」のテーマとともに掲げられたのかがわからなかった。その作品には、他の概念である「孔・粒子・斜め・時間」全ての要素が含まれているようにも見えたからだ。
こう感じた理由としては5つの原則の中に脈々と流れている一つの思考が感じ取れたからだと思う。それは「近代の人類が勝手に作った境界線・時空間の非連続性から解放され、滑らかな時空間の連続性の接合点としての建築物」という捉え方だ。この意味をなんとかして伝えるために、それぞれの概念を解釈し直してみよう。
建築物が「孔」となれば、断続的な場所と場所は一つの明確な境界線で切り変わる場所になるのではなく、もはや一体となった一つの場所になることができる
建築物が「粒子」となれば、その建築物が確固たる実在を持つモノとして認識されるのではなく、その建築物は、風景や自然などの他全てのものと等価な粒子として認識される。そうなれば建築物としての独立性は消失する。建築物は粒子として時空間に「溶け込む」。
建築物が「やわらかい」モノであれば、その建築物の中とその外の世界という「ウチとソト」という明確な境界線は消え失せる。境界線ではなく、ウチでもあり、ソトでもあるという、曖昧な時空間の誕生を実現することができるかもしれない。建築物が真の意味で「やわらかい」ものとなれれば。
建築物に「斜め」がうまく組み込まれれば、建築物が地表に盛り上がりを生むものではなくなるかもしれない。土地や自然に突然生まれた空間としての建築物ではなく、森に生える木のように、自然な佇まいを獲得することができるかもしれない。
建築物は、「時間」を継承し、連続的な時空間の形成の担い手になることができるかもしれない。
「自然と人工物」「建築物と環境」「建物のウチとソト」「土地と建築物」「断続的な時空間」。これら全ては近代の人間が建築物とともに作ってきた「人為的な境界線」に過ぎない。その人為的な境界線を、隈研吾さんが作る建築物たちは「曖昧にしたり」「取り払ったり」「更新したり」「接合したり」する。そんな創造物だ。そこに僕は、美しさを感じた。
個展を見終わった後、いつも見る街並みの景色に違った意味を与えることができるようになった。
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少し久しぶりの美術館、ワクワクしました。会場の東京国立近代美術館は初めて行きました。夜に行ったのですが、ビルだらけの街並みに溶け込んでいて、なんだか綺麗でした。
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