れんてん

『当たり前に見えるモノ』を見つめ直す。』そんな考察が多いnoteです。 『美術館を作ること』それが僕の夢です。このnoteは、その夢の過程の記録。 『死の境界線』についての探究。ブラックホールが大好きだった。

れんてん

『当たり前に見えるモノ』を見つめ直す。』そんな考察が多いnoteです。 『美術館を作ること』それが僕の夢です。このnoteは、その夢の過程の記録。 『死の境界線』についての探究。ブラックホールが大好きだった。

最近の記事

イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル

国立新美術館にて、「イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル」が開催している。美術館に入った少し経つと、この言葉が掲げられていた。 「イヴ・サンローラン」という人がいることは知っていたが、これほどまでのファッション・そして現代にもう受け継がれる「スタイル」を生み出した人物だとは知らなかった。 この展示会では、イブサンローランという人物は一人の人間なのだろうかと思わされるぐらい、創造性の嵐に揉まれることになる。 この展示会を見ながら、僕は3つのことを考えていた 天才は、

    • 頑なにマスクを外さない日本人は「不自由」なのか?ー自由を担保する無意味な規範についてー

      「いつまで日本人はみんなマスクをつけているんだ」「ワクチンを打っているんだから、もうマスクをつけるのはやめようよ」「アメリカじゃみんなマスクつけてないよ」 最近、そんな声を聞くようになってきた。そういう主張の裏には「欧米の自由な文化から遅れている、不自由な日本人」「日本人は無意味なことを続けるから不自由だ」と言った思想が隠れているように僕は感じた。 「日本人は空気を読む。社会的な圧力に簡単に屈して、みんながみんな周りに合わせてしまう。それがダメなところだ」 僕が学生だっ

      • 『過去の黄金時代』は空想である〜「昔は良かった」。その感情は終わらない螺旋階段を降り続けることを望むようなものだ。〜

        今日は『ミッドナイトインパリ』という映画を見た。この映画は、「昔は今よりもよかった」という誰しもが思う感情に対して、「本当に昔のがよかったのか?」、と投げかけてくる。 現代を風刺するような、そして過去を美化するような、それでいて『今』を生き、『過去ではなく今』に向きあおうというメッセージを感じる映画だった 「昔は良かった」。その感情は終わらない螺旋階段を降り続けることを望むようなものだ。もし、昔に戻れたら、そこにいる人たちもまた、「昔の方がよかった」と言い出すのだから。

        • 「学び続ける」ことで偏見から解放される自由を得る。しかし同時に行動を制限をする鎧を着る事になる

          高校の時の数学の先生はすごくいい先生だった。 その先生は数学の話はよくしてくれるけど、関係のない長話は滅多にしない先生だった。生徒の世話焼きは一切しない先生が、一度だけ熱を込めて僕たちに伝えたメッセージを、今でも僕はよく覚えている 別に勉強なんてしなくてもいい。じゃあなんで僕や、君たちは毎日勉強し新しい知識を身につけようと努力するのだろう? それは『自由』を得るためだ。 新しいことを知れば知るほど人間は自由になる。 無知が産む偏見から解放されることもできるし、言語を学べ

        • イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル

        • 頑なにマスクを外さない日本人は「不自由」なのか?ー自由を担保する無意味な規範についてー

        • 『過去の黄金時代』は空想である〜「昔は良かった」。その感情は終わらない螺旋階段を降り続けることを望むようなものだ。〜

        • 「学び続ける」ことで偏見から解放される自由を得る。しかし同時に行動を制限をする鎧を着る事になる

          世界は全て関係でできているー「わかるサイズ」の部分に切り取ることは複雑性の理解の放棄につながるー

          この世界には基本的な『構成要素』として存在する確固たる基礎的な物体、部分があるのだろうか? レゴを使って建物を建てるとき、いろんな色のブロックを使う。 レゴの製作物の世界ではその時使う『ブロック』がその建物の最小単位と言える。単位をなるブロックを積み重ねて多種多様な構造物が出来上がる。 では、レゴブロックが形作る世界のように、僕が生きるこの世界にも万物を形作る『最小単位』が存在するのだろうか? 物理学の世界の「最小単位の探究」その探求は古代ギリシャ時代に現代でいう『原子

          世界は全て関係でできているー「わかるサイズ」の部分に切り取ることは複雑性の理解の放棄につながるー

          美しいという感情を、「素のまま」受容できる、人間の心の自由ー美しいという感情の源泉ー

          だいぶ前に富山に行ってきた。富山には美術館のような『芸術』が集中している施設がたくさんあった。 街並みも綺麗でのどかで、その土地からどこか懐かしさと、凛々と湧き立つ生命力を感じた。旅の最後に富山県美術館によってきた。 その時の企画展の名前は、『TADのベスト版 コレクション+(プラス)―あなたならどう見る?―』。 自分が美しいと感じる絵を「どう見る」のか?ー秩序と無秩序の配合比率ー人は、どんな絵を見た時に『美しい』と感じるのだろう? この世に存在する『絵』を分類しよう

          美しいという感情を、「素のまま」受容できる、人間の心の自由ー美しいという感情の源泉ー

          「死ぬこと」も「生きること」も同じ次元のことなのだろうか?ー関係性を途絶えさせない、目には見えない無数の糸についてー

          「人間の目に見えないものはたくさんある。僕は物理学を学んでいたからか、すぐに思いつく「目に見えないもの」は、『電磁場』とか『重力場』とかだ。 磁石が引き合うとき僕の目には見えない『電磁場』という場を介して、磁石は互いに情報を交換し『引き付け合う』もしくは『斥け合う』という応答を示す。 僕たち人間は地球から重力を感じている。全ての質量を持つものが織りなす 『重力場』という場も、僕の目にはもちろん見えないし、僕と地球を結びつける『糸』を見つけることも僕にはできない この世界

          「死ぬこと」も「生きること」も同じ次元のことなのだろうか?ー関係性を途絶えさせない、目には見えない無数の糸についてー

          『愛は時空を超える』〜映画インターステラーを見て感じた、真実を捉える姿勢の豊かさについて

          『愛だけが、時間も空間も超えられる。』映画『インターステラー』の印象的なセリフだ。愛が時空をこえるだって?そんなことは馬鹿げている。強力な科学力を有している現代人は、簡単にその言説を一蹴することができる。けれど、科学は確かに自然の摂理に則した事実を映し出すけれど、それが必ずしも真実とは限らない。『科学的に物事を見る』確かにそれは重要な視点だがそれが全てではない。 今日は、愛・真実・科学の力・迷信・不思議な悪寒の正体について考えてみようとおもう。 先にこの映画の概要と その中

          『愛は時空を超える』〜映画インターステラーを見て感じた、真実を捉える姿勢の豊かさについて

          好きな服を着ることの意味ー「自分は自分でいいのだ」と思わせてくれる魔法ー

          25歳の今の僕は、服が大好きだ。 高校生の時も服が好きだった。僕が好きな服を着ていると時々笑われた。 それのどこかいいの?そんな声が時々聞こえてきた。 僕はいいと思っているんだ。君がそう思おうが、その事実は変わらない。 なぜそんなことを言うんだ? と、そんな強気でいられる強さは、その時の僕は持っていなかった その時服が少し、嫌いになった。好きな服を着たときに何か言われるのが、怖くなった。 そして僕は、他人からそういう風に言われないように、自分の好きから少しだけ離れ

          好きな服を着ることの意味ー「自分は自分でいいのだ」と思わせてくれる魔法ー

          人間が作った非連続な時空間を「接続する」建築物のちからー隈研吾展を見て学んだ、建築にできることー

          先日、隈研吾展ー新しい公共性をつくるためのネコの5原則ーに行ってきた。建築についてど素人であり、隈研吾さんは木を基調とした素晴らしい建築物を作る人、という認識程度で、どんなことを考えている人なのか全く知らなかったから、興味が湧いて個展に足を運んだ。 あまりに壮大で、奥深い大量の建築物と、綴られた言葉の含蓄に圧倒された時間だった。僕が見ている彼の建築物はその実在としての側面にすぎなかったことがわかった。この展示会を通してその奥に眠っている、造形物の奥深い思想の側面を垣間見るこ

          人間が作った非連続な時空間を「接続する」建築物のちからー隈研吾展を見て学んだ、建築にできることー

          「自分の主張が正しい前提で話す」ことに慣れると、何が起こるのか?〜人の心の老いについて〜

          先日小田急線で悲しい事件があった。そしてその犯行の動機は女性を狙ったものであると現在は報道されている。その点に関して、Twitterでは様々な議論がなされていた。様々な議論に目を通したが、口調を荒げた議論が多かった。 そこで交わされていた議論において基本的に前提になっているのは「自分の主張の正しさ」だった。それは議論というよりは「自分の正しい主張の投げ合い・殴り合い」だった。 それを見ながら「自分の意見が正しい前提で他者の意見に耳を塞いだ瞬間から、人は、心が老いていくのか

          「自分の主張が正しい前提で話す」ことに慣れると、何が起こるのか?〜人の心の老いについて〜

          「多様な社会」を実現するためには、「多様を維持する仕組み」が不可欠になるのではないか?ー河口湖の森から学ぶ多様性についてー

          先日川口湖にいってきた。広大な湖の先には、大きな山が所狭しと陣取っていた。 その中でも一際質量を感じる山が、富士山だった。水と水がつなぎ合って少し大きな水ができる。それがまた重なって大きな湖ができるのだろうか。 森、山、川、湖といった自然に触れる中で、「なぜ自然は多様化するのか?」という疑問を持った。なぜ森には、いろんな種類の木々や植物が生い茂っているのだろうか?様々な種の動物が住み着いているのだろうか? そこでこの記事では、自然が多様化を望む理由を少し考えてみたい。 森の

          「多様な社会」を実現するためには、「多様を維持する仕組み」が不可欠になるのではないか?ー河口湖の森から学ぶ多様性についてー

          『生命体の織物』の中で変化を生む限り、肉体的な死を迎えた生命も「生きている」のかもしれない

          最近『死』って何なんだろうかって考えている。 僕が5歳ぐらいの頃、初めて人が火葬されて、白骨になってしまうのを見た。 たくさん世話をしてもらったおばあちゃんが病気で亡くなった。 僕はその変わりはてた姿を見て、言葉が出なかった。 よくわからない感情のまま母と、重い箸で納骨したのを鮮明に覚えている。 その時漠然と、「人は死ぬ」ということの意味を理解した。 それから僕は、小さい頃時折、両親や兄妹が死んでしまった時のことを想像して、悲しくなって一人枕を濡らしていた。 家族が骨にな

          『生命体の織物』の中で変化を生む限り、肉体的な死を迎えた生命も「生きている」のかもしれない

          何かを加えるのではなく、そこから何かを取り除くという発想のちからー公園の散歩で見つけた発明ー

          二輪の自転車を乗り回す前、僕は4輪車に乗っていた。二輪車だと転んでしまうから、二つの補助輪を後輪につけていた。 タイヤも小さいからあまり進まないわけだけど、ガラガラと音を響かせながら一生懸命漕いでいたことを覚えている。僕は、なんだか人より早く漕げる。そんな気がしていた。 確かに子供のことは補助あり自転車のおかげで、正規の二輪自転車に乗れるようになったとは思う。しかし、補助輪を外し、いざ本番の二輪車に乗ってみると、別次元の難易度に直面したことを鮮明に覚えている。安定していた

          何かを加えるのではなく、そこから何かを取り除くという発想のちからー公園の散歩で見つけた発明ー

          人の顔の説明はできないが識別ができるのはなぜなのか?ー人間が持つ認知機能の不思議ー

          「意識と無意識」と区別される人間の二つの意識は、全く違う能力を有している。人間は両者の能力をフル活用して、「当たり前の毎日」を過ごす。しかし、人間の「当たり前の毎日」の中には、考えてみたらなぜ自然にできているのかわからないような高度な芸当で溢れているのではないだろうか?そこでこの記事では、この二つの意識の働きの違いについて考えていく。 まず、人が意識的に言葉で表現できることは限られている。例えば、多くの人は自分の知っている事のほとんどを覚えていないし、語る事ができない。しか

          人の顔の説明はできないが識別ができるのはなぜなのか?ー人間が持つ認知機能の不思議ー

          忙しい生活に適度な余白を作るためにはどうすればいいのか?ー遊びのテンプレ化についてー

          ・「次はこれをやってその次はあれをやろう」という思考「次にこれをやろう。その次はこれを、、」とタスクが積み上がることで時間が詰まっていくと、なんだか息苦しい気分になる。たまに自分はその沼にハマってしまう。今やっていることに集中し、その次はまた次にやることに集中すればいいだけなのに、「次にはこれがある」と、無意味にも想像してしまう。 とはいえ、「やるべきこと」を放置して、好きなことばかりしていたら多くの人は将来的に自分自身の選択肢を狭めることにもなる。でも「やるべきこと」に追

          忙しい生活に適度な余白を作るためにはどうすればいいのか?ー遊びのテンプレ化についてー