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「自分の主張が正しい前提で話す」ことに慣れると、何が起こるのか?〜人の心の老いについて〜

先日小田急線で悲しい事件があった。そしてその犯行の動機は女性を狙ったものであると現在は報道されている。その点に関して、Twitterでは様々な議論がなされていた。様々な議論に目を通したが、口調を荒げた議論が多かった。

そこで交わされていた議論において基本的に前提になっているのは「自分の主張の正しさ」だった。それは議論というよりは「自分の正しい主張の投げ合い・殴り合い」だった。

それを見ながら「自分の意見が正しい前提で他者の意見に耳を塞いだ瞬間から、人は、心が老いていくのかもしれない」と感じた。そこで今日の記事では、
誰しもが直面する「老い」について考えてみたい。

心が不老不死の人間は、いるのだろうか?

今回の事件は「フェミサイド」なのか否か?

今回の事件に関する発信を見ていると、「フェミニスト」と呼ばれている方達が特に怒っているように見えた。「これは女性を狙った犯行だ」「そんなことが許されていいのか」と。無差別殺人事件と認識していた僕は、最初なぜその論点で怒っているのかがわからなかった。

多くの発信の中で、「フェミサイド」という単語がよく登場していた。調べてみると
「性別を理由として女性が標的となった男性による殺人事件」は「フェミサイド」と呼ばれており、その事件群は様々な国で社会問題として認識されていることがわかった。

恥ずかしながらこの問題について、僕は全くの無知だった。

僕は小田急線沿いに住んでいるから、この事件発生後、犯人逮捕まで注視していた。約1時間後ぐらいに犯人は捕まり、「6年前から女性を殺したいと思っていた」と言う発言があったことを知った。その発言を見て、
僕は無意識的に、「無差別殺人」の中で、「その矛先が女性だった」(その矛先が男性か、女性かは等確率)と解釈していた。

しかし、上記の記事の内容が示していることは、昨今の殺人の統計データによれば「矛先は等確率ではない」ということが示されている。明らかに女性が被害に遭う事件数の方がおおく、これが「フェミサイド」と呼ばれる社会問題だ。

上記に引用した記事で考察がなされているのでもう少しフェミサイド自体について知りたい方は読んでみてほしい。
女性の被害者が多いことの原因は、単純に男性が女性に暴力を奮うからといった単純な理由だけではない。そこには刑事司法制度や社会的規範など、既存の社会の構造からきているものでもある、複合的な社会問題なのだ。

自分の意見の正しさが前提にある議論の終着点は最初から決まっている

今回の事件は小さいものではないし、この事件が帯びる意味の大きさは上記で触れた通りだ。だから、騒ぎすぎだ、と言う気もないし、今回の事件に関して議論している人の怒りの内容自体に言及する気はない。

この前提の上で、今回の議論をみて僕は、「自分の意見の正当性を前提に発言をしている人が多い」と感じた。

その前提がある議論の終着点は最初から決まっている。それは、お互いに『「あなたは間違えている、なぜなら〇〇だから」と、自分の主張の正しさを、部分的に示す証拠を投げ続ける』か、『話にならない、じゃあね』と終わらせるかのどちらかだ。

その議論に進展はない。AとBの主張から始まった議論の結果、CやDの結論に至る可能性がないという意味で進展がない。なぜなら、AとBをお互いに投げつけあって終了するか、どこか「これだけいっているのに自分の意見に納得しないあなたとは話にならない。じゃあね」と強制終了させられるからだ。それは議論ではない。

どれだけ、その結論に至るまでに時間を費やし、趣向を凝らした結論だとしても、「自分の意見が絶対に正しい」ことを前提にした瞬間に、議論をすること自体が無意味になる。「自分の主張を伝えること」も議論の意味でもあるから、無意味は言い過ぎだが、自分の意見がより研磨される可能性はなくなってしまう。

『心の老い』とは何か?ーこの世界の全ての事柄の「答え」を持っているという状態に向かっていく人間

自分の持つ様々な主張が「それが正しいことを前提とした主張」になっていくと、その人の思考に何が起こるのだろうか?

その人は、この世界の様々な側面・問題に対して「答え」を持っていると思っている。しかしその全てを、この世界の他の住民が受け入れるはずもなく、人と議論をかわすと、自分の答えとは相反する別の答えに直面することになるだろう。
でもその人は「自分の答え」を持っているから、その答えを曲げることはない。なぜなら、確かに相手の主張を部分的に裏付ける証拠はあるが、自分の答えも同様だからだ。

そして次第にその人の思考は硬直化し、「自分の持っている答え」に全ての議論の結論が収斂し始める。

その数は、若い頃は少なかったかもしれない。最初は、「日本の政治」とか「貧困問題の解決方法」とか、各論の一部に限られていたかもしれない。しかし多くの人は、次第にその数を増やしていく。「自分が答えを持っている領域」が着実に広くなっていく。

そして気づけば人は「自分は全ての領域で答えを持っている」かのように錯覚するようになる。そして最終的に全ての議論において、終着点の決まった議論をするようになっていく。

全ての始まりは「自分の主張が正しいことを前提としたこと」だ。最初は小さい領域だったかもしれないが、それをし始めると気づけばその領域が広がっていく。しかしその多くは錯覚だ。

人の意見に耳を塞ぎ、自分の意見の正しさを盲信したその時から、その人の「心の老い」が始まるのだろう。そしてその老いは気づかないうちに着実に進んでいく。

着実に自分の思考は、同じ思考に硬直化し、次第に「肉体的な老い」と似た状態に至る。老いた心は動かしにくく、可動域が狭いから、自分とは違う思考を受け入れることができなくなる。

老いれば老いるほど、自分は正しいと思えてくるし、自分は他人より多くのことを知っていると思えてくる。それによって自分は生きやすくなっていくからだ。

僕はこの意味での老いを完全に否定的なものとして捉え、主張する気はない。
でもまだまだ20代だから、心が老いないように気をつけておこうと思う。
思考が硬直化しないように、人の話に耳を傾け続けようと思う。もちろん、自分の主張はしっかりと持った上で。

自分の主張がない人同士では議論の土台が作られない。しかし自分の主張にしがみつく限り、その議論に進展はない。
自戒も込めて、この言葉を忘れずにいようと思う。一歩先に進むために。

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事件があったその時間に出かけようとしたけど、
オリンピックのバスケを見るためにやめていました。
人生は小さな決断で形作られていて、その中の小さな決断が
人生を大きく変えうるのだということを再確認しました。
当たり前にやってくる今日に感謝して、頑張ろうと思います。
熱中症に気をつけてください!
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れんてん



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れんてん
ただ、ありがとうございます。 きっとまた、「なにか」を届けます。

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