「学び続ける」ことで偏見から解放される自由を得る。しかし同時に行動を制限をする鎧を着る事になる
高校の時の数学の先生はすごくいい先生だった。
その先生は数学の話はよくしてくれるけど、関係のない長話は滅多にしない先生だった。生徒の世話焼きは一切しない先生が、一度だけ熱を込めて僕たちに伝えたメッセージを、今でも僕はよく覚えている
別に勉強なんてしなくてもいい。じゃあなんで僕や、君たちは毎日勉強し新しい知識を身につけようと努力するのだろう?
それは『自由』を得るためだ。
新しいことを知れば知るほど人間は自由になる。
無知が産む偏見から解放されることもできるし、言語を学べば多くの人とコミュニケーションが取れるようになる。だから僕は、勉強を続けている
当時の僕は、学校の宿題やテストを漠然としていただけで、自分の意思ややりたいことに向かって勉強をしていたわけではないけれど、心の奥に刺さった言葉だった
『そうか。『学ぶ』ということは自分の体を軽くし縛りから解放され、自由になることに繋がるのか。』
けれど、最近はこうも思うようになった。
「新しいことを学ぶと、想像の範囲が広がってそれに伴って僕たちの行動の自由は制限されていくこともある。」
学ぶということは、リスクを知ること
人間は、『リスク』への正しい恐怖心を、大人になるにつれ身につける
大人は砂利道を不用意に走り回ったりしない。なぜなら転んだ時の痛みを知っているからだ。けれども子供は、そんなのお構いなしに走り回る
子供が平均台の上をはしり抜けていくのを見ると、大人はそれを止めたくなる。
なぜなら足を踏み外して怪我をする痛みを知っているからだ
『リスク』への恐怖は自分を守るために必要不可欠なものだが、それに伴って行動は制限される。
現代では『リスク』は肉体的なものに限られない『経済上のリスク『精神的なリスク』『倫理的なリスク』『経営上のリスク』『医学的なリスク』そして『失敗のリスク』。何も学ばなければ、無数に存在するリスクに気づくことはない。気づくことなく大ダメージを受ける場合もあれば、気づくことなくリスクをすり抜けることもあるだろう。
『資本主義』『経済』『テクノロジー』『医学』『インターネット』など、さまざまな巨大な構造物を作り上げた人間社会には、あらゆるリスクで溢れている
『学ぶ』ということはその『リスク』を知ることにもつながる。その健全な恐怖心が、同時に自分の行動の幅を制限するようになる。
『自由』を得ることにつながった「学ぶ」という行為は、いずれはどこかで自分に鎧を着せる事になる。知識を得てしまうといろんなことを想像してしまうのだ。
例えば、対立を見ると両者の主張の一部的な正当性を知っていると、どちらを擁護すべきなのかわからなくなる。
強者を目指して生きていこうとしても、弱者の苦しみを知ってしまうとなんだか虚しい気分にもなってくる。このジレンマの中で生きることはいいことなのだろうか?それとも悪いことなのだろうか?
ここは平均台の上だと知った上で「走ること」を選択する
確かに全てのリスクを考慮して関係しているもの全てにとっていい決断ができたほうがいい。しかしそんなことは不可能である。ではどうすればいいのだろう?リスクがあるから動かないというのが、最良の選択なのだろうか?
世界は表裏一体のもの事ばかりで、捉え方次第では悪くも見えるしよくも見える。そんなもので溢れている
しかし、その悪い面を捉えた上で自分の選択をするということが大切なのだと思う
この先には体育館の平均台のように細い道しかない。進まなければ先に進めないけれど、少し気を抜いたら落ちてしまう。でも自分は、「それを知った上で走る」といった選択をすることが、大切なのだと思う。
ここが平均台の上だと知らない人は、なりふり構わず走って落ちてしまうかもしれない。けれど、それに気づくことがでいれば、「それでも走る」という選択をすることもできるし、「今はじっと立ち止まる」という選択をすることができる。
慎重すぎるぐらい丁寧に、テクノロジーの橋を架ける
人は物理的な橋をかけるのに、膨大な時間と労力と資本を投下する
慎重に慎重に、万が一にも崩れ落ちるなんてことがないように、人が住む土地をつなげるために橋をかける。その橋は、何十年、何百年と繋ぎ続けるように丁寧に作られる。
もしその橋が崩壊しても、それによって失われる命は数千人の規模だろう
それが小さいという意味ではないが人間がいま『テクノロジー』を使ってかけている橋が崩壊した時に生まれる惨事は比べ物にならない
今や必要不可欠となったインターネット通信網
アメリカとロシアで眠っている原子力
たくさんの人を円滑に動かすように設計された車、さらには飛行機を結ぶ交通網
複雑さが制御・予測を超える経済システム
他にもたくさんのテクノロジーの橋の上で、僕は生きている
その橋は、物理的な橋よりも、絶対に崩壊してはならない橋だ。慎重すぎるぐらい慎重にかけていくべき橋だ。
その橋の崩壊の危険性は、学び続けることでしが察知することはできないものだ。一見良さそうに見えるものでも、簡単に壊れてしまうものだったら大変だ。そこに100万人の人が歩いていたら、その橋が崩壊したら大変なことになる。
ここで僕が思っていることは「テクノロジーの橋はこれ以上架けるべきではない」という意味ではない。
複雑に絡み合ったリスクと向き合って、その危険性を考えすぎなほど考え抜いた上で、橋を架けるという選択をすることが大切なのだと思う。
そのあゆみは恐ろしいほどゆっくりになるかもしれない。けれどそこで焦りすぎてはいけない。
慎重すぎるほど丁寧に決断を重ねていくことが『テクノロジー』という力を得た人間の生き方なのだと思う。
そしてそれを可能にするのは、「学び続ける」という、鎧を続け、体を重くする非合理にも見える営為なのだと思う。
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冬が終わった!と思っていたら今日は風が強くて寒かった・・・・
風邪をひかないように気をつけてください!
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