本の感想2『すべての教育は洗脳である』堀江貴文
まえがき
10年後の世界の人(あるいはもっと先の未来人)から見た現在の常識、当たり前、生活観というのは、馬鹿みたいなものだろう。
歴史というのは、人間はしばしばそういったことを繰り返しているということを教えてくれる。
過去、キリスト教圏の人がイスラム教圏に戦いに行けば(人を殺しにいけば)英雄視された。しかしその時から100年経ってみると、同じ地域でボランティアに行くことで(人を救いに行くと)英雄視される。
自分がいる世界がある一時期、ある一範囲にしか通用しないことや、それが誰かによって意図的に作られてることも教えてくれる。
「常識」への信仰
まず大前提として、学校で教えることの9割は「知識」ではない。
知識とは、普遍的なものである。「主観の一切入りこまない事実にもとづく知」のことを言う。
対して常識とは、その場所、地域、組織、国といった狭い共同体、時代の中でしか通用しない、主観が存分に含まれた決まり事である。
学校の先生が押し付けているのはまさに後者である。みんながこれをやっているのだから、点数を取るのは良いことだから、と「間違った常識を正義として」ねじ伏せようとしてくる。自分で勉強したいこと、知りたいこと、極めたいことがあるのなら、学校の勉強なんか無視して進めればいい。
ほかの人間が違うから、やっていないから、という理由でやりたいことができない状況というものは取り除かれなければならないと思う。
我々は使いやすいように精製されてきた
なぜ学校は恣意的な常識を人に押し付けようとしているのか?またその常識によってどんな人間を育てたいのか?それは、「従順な家畜」である。企業や社会は、従順な働き手を求めている。
企業からすると、高学歴の人間は理不尽な作業、労働への耐性が高いという判断になる。それは受験、卒業、就活といった理不尽な勉強に耐え続け、続けてくることができた人間であるからだ。世間でいう「学力」とはそんなものである。
学校というのは、とにかく人を企画通りに仕上げようとする。教師は子供たちに同じテキストを暗記させ、同じ数学の問題を解かせ、同じルールで採点していく。赤点をとったり問題行動を起こした子供は、どうにか「規格内」になるように尻をたたく。そして社会や企業に「納品」されていく。
今世間一般でなされている教育とは、時間厳守、一方的な評価、上への服従など、雇用者や使う側にとって管理が楽で従順な「望ましい労働者」を作るためのものである。
『億男』に出てくる、ある登場人物も次のように言っていた。
「一生懸命勉強をして、有名大学を卒業して、いい就職をすれば金持ちになれる、、それは本当ですか?」
「答えはNo。そんな時代はとうに終わっている。現代の金持ちは、そんな既定のルールを辿ってはいない。また、そんな内容を学校や親は教えてくれない」
はなから使われる側の人間として勉強させられ、それに気づくことができなかったというのは、まさに洗脳されていた証拠である。常識を疑うこと、また常識という世間からの洗脳から解かれる人が多くなることを願う。
貯金的思考の人びと
学校教育で学ぶ、いや学ばされている内容というのは知識だけでない。間違った道徳も教えられる。その道徳というのは「我慢」だ。
「やりたいことがあっても、いざという時に備えて我慢しなさい。」という大人たちの理屈で機会をつぶされ、我慢を強いられる。
授業を無視して自習したい、学校の勉強よりラジオを分解したい、ゲームを極めたい。これらは、すべて悪とされる。
日本には、我慢する人をほめたたえる傾向にある。理不尽な環境でいくら不満を抱えていようが、黙って耐え続けることが美徳とされる。そのせいか、留学に行きたい、海外旅行に行きたい、仕事を辞めたい、などと考えても「今はまだその時ではない」と実行に移せない人が大半である。
こういったマインドコントロールが、この国全体を強く支配している。その元凶の一つがまさに「学校」なのである。やりたいことを我慢し、自分にブレーキをかけ、自分の可能性にふたをすることを推奨する恐ろしい洗脳が白昼堂々となされている。
あとがき
常識と思われてるものって、疑えないようにできてるからタチが悪いね。あとやっぱり学校とか先生とか校則とかって、信仰すべきじゃない。
勉強する(読書する)ことが大事な理由の1つとして、こういった常識というものを知り、かつ解き放たれていくことであると確信した。