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本の感想27『ことばと文化』鈴木孝夫

前に書いた『解剖学教室へようこそ』で、人はモノに言葉をつけることで世界を切り分けて考えているということを学んだ。その最後にちょこっと、「ことばがモノを存在せしめる」という考え方を取り出したんだけど、今回はそれについて書こうと思う。

ことばがモノを誕生させる?

「モノという存在がまずあって、それにことばを付けていく」というのが、常識的な認識だし考え方だ。それはそうだ。ドラゴンという架空の名前をつけたところで、「ぽっ」とドラゴンがこの世に誕生する訳ではない。

ただ、一定の哲学者や言語学者とかの中には、「ことばが、逆にモノを在らしめている」「始めにことばありき」という考え方を示している。

始めにことばがあるといっても、カオスのような状態に、ことばだけがその辺りをゴロゴロしていたというわけはない。また、鳥が卵を産むようにことばがいろいろなモノを生み出しているといった意味でもない。

「ことばがモノを在らしめる」ということは、「世界の断片をわたしたちがモノとか動きとして認識できるのは、ことばがあるから」であり、「ことばがなければ犬も猫も区別できていない」ということである。

世界には4本の足で歩く動物が存在しているが、それらを別々の存在として区別、認識できるのは、それぞれに該当する別々のことばがあるおかげである。

例えば犬、猫という区別がない国があったとする。そこの人々はそのどちらを見ても、漠然と4本の足で歩く何かの動物、というふうにしか認識できない。

つまり、その国の人々の概念には、我々で言う犬や猫といったモノが存在していないということだ。

前回までの繰り返しにもなるが、「本来ダラダラと連続した区別のない世界」に対して、人間が勝手に「切れ目」をいれてモノコトを認識する。その「切れ目」は、もともと世界やモノの側にあるのではなく、人間が勝手に作りあげているのである。

ことばはモノを変化させる

そこからさらに派生していこう。ことばはモノを変化させもする。例えば虹。Rainbow。日本人は7色を無意識に想像する。でも虹は、本来7色ではない。光の波長の違いからくる連続的な変化に過ぎず、明確な段階はない。これに対し、日本では勝手に7つの色を設定しているし、アメリカだと6色、中国だと5色だ。

つまり、ことば(言語)、文化が違うだけで、虹は勝手気ままに変化しているのである。実際に、中国の人は虹を見かけるたびに頭の中で5色を思い浮かべ、錯覚するだろう。ことばがモノを変化させる一例だ。

ことばがなければモノは認識されない

膨大な種類の植物が生息するジャングルにいるとしよう。生物学者とあなたが見ている世界は果たして同じだろうか?おそらく、生物学者の見る世界にはたくさんのモノが存在しているし、あなたの目にはモノがすくない。これはどういうことか?というのも、名前や特徴を理解していないと、モノ自体をそもそも人が認識しない。

四葉のクローバーもそうだ。本来、葉が3つだろうが5つだろうがクローバーに違いはなかった。そこに人間が「(幸せの)4つばのクローバー」、という名前を付けたことで、四葉のクローバーはこの世界に、あなたの中に、実際にモノとして存在し始めた。かつては他と区別されていなかったものが、特別に存在し始めたのである。

感想

このようなことは、哲学の分野では唯名論と実念論という対立で昔から議論されてきたらしい。今回紹介した考え方は唯名論で、これは言語の仕組みを良くとらえているとおもう。また、勉強する、知識をつけることで世界が広くなるということも裏付けしてくれているなぁ。






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