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本の感想61『文字禍』中島敦

文字には霊がとりついている

一つの文字を、眺め続けてみる。その文字を、文字と認識できなくなるまで眺める。ゲシュタルト崩壊を起こす。

すると、「なぜ無意味な線の集まりがこのように意味を持つのか?」と直感する。単なる線の集まりが、なぜそういう音と意味とを持つことができるのか?

単なるバラバラな線に、一定の音と一定の意味とを持たせるものとは何か?

ここに、文字の霊を発見する。

文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなった。
文字を覚えてから急に蝨(しらみ)を捕るのが下手になった者、眼に埃が余計入るようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者などが、圧倒的に多い。

文字の霊が人間の眼を食い荒らし、神経を鈍らせ、体を鈍感にさせているのだ。

歴史は書物

歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌されたものである。

書かれなかったことは、無かったこと。芽の出ぬ種は、結局無かったことと同じ。歴史とは、書物のこと。

文字がモノを在らしめる

文字の霊が一度ある事柄を捉えて、これを己の姿で現す。となると、その事柄はもはや不滅の生命を得ることになる。

反対に、文字の霊の力ある手に触れなかったものは、いかなるものもその存在を失わねばならない。

古代スメリヤ人が馬という獣を知らなんだのも、彼等の間に馬という字が無かったからじゃ。この文字の精霊の力ほど恐ろしいものは無い。

俺やあなたが、文字を使って書きものをしているなどと思ったら大間違い。俺らこそかれら文字の精霊にこき使われる下僕なのだ。

感想


面白い考え方だなと思った。的を得ている。

青、という言葉を知ってしまうせいで、空を青一色としか見れなくなる。子供の頃はいかに純粋に空を眺められたものか。

ほこり、ダニ、しらみ、という言葉を知るせいで、そのモノたちが世界に存在し始める。すると、ベッドは清潔なものではなくなり、目はかゆくなり、くしゃみがでる。


地球が生まれてから現在に至るまで、これまで存在した人間動物、万物にストーリーがある。それぞれに歴史がある。

しかし、彼らのうち歴史となるものはごくごく少数だ。歴史とならなかったものたちは、いなかったも同じ。

この世の「結果論」が的を得ていることを教えてくれる。結果がなければ、無かったもの同じ。勝たなければ、どんな言い訳も過程も不要。価値がない。今は心から賛同できる。この世は結果がすべてだ。


前に、同じような評論の感想を書いた覚えがある。言葉が先か?モノが先か?のような内容だった気がする。

この本(中島敦)も、その評論も、「言葉が先」説を支持している。間違いない。

言葉に捕らえられたモノは、この世にいのちを得る。言葉に捕らえられなかったモノは、捕らえられるまで誕生を待つ。

赤ん坊の世界には、ネコも犬も存在しない。混沌としたカオスの中に生きている。言葉というレッテルを貼り付ける作業を繰り返し、世界を増やしていく。人間は赤ん坊の頃が一番天才だ。レッテルを貼り続けて、世界を規定し、自分を規定していく。



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