本の感想19①『こころ』夏目漱石
親友から、好きな女性のことを告白される。しかもその女性のことを自分も好き。あるいはすでに付き合ってて、親友はそのことを知らない。
これは、現実的にそう珍しくないだろう。少なくとも恋愛マンガにおいてはありふれた平凡なパターンですらある。
打ち明けられたまさにその瞬間、どうするべきが正解なのだろう?「実は俺も」なんて、俺はきっと言えない。気が弱いのだ。そんなやつは、相当強靭なメンタル持ちか、図々しいやつか、コミュ障のどれかだと思ってしまう。
しかもこういうのは、後から「あの瞬間にいっておけば…」と後悔するやつだ。でもその瞬間はそんなこと思いもつけない。
さて、一回聞いてしまったが最後、「自分も好きだ」と宣言しないかぎり、後からの発覚は友達に対する裏切り行為となる。「なぜ僕の気持ちを知りつつ、お前は黙ってたんだ」と思われるのは目に見えている。
言うに言えない気持ちを隠しながら、表面では心から友達の恋を応援してるように演じ続けなければいけない苦しみ。自分の気持ちを押し殺す苦しみ。嘘に嘘を重ねる苦しみ。
私(小説の主人公の先生)は、そうやって苦しんだ挙句、K(親友)の自殺によって、さらに生きながら苦しみ続ける。しかも「不幸なことに」、娘さんも手に入れてしまう。そんな後で、娘さんと幸せにのうのうと暮らして良い訳がない。
とまあこんな感じで、内面の苦しみを味わい続ける先生だが、これは『罪と罰』の主人公に似てるなと思った。
というのも、「これは当人の気持ちの問題」という軽率な結論で片付けてしまったらどうだろう?もし先生がガメツイやつで、自分の欲しい物のためなら手段を問わない、みたいなタイプの男だったら。Kから打ち明けられた時、自殺した時、そこまで責任を感じないだろう。悩み苦しむこともないだろう。あるいは、娘さんを手に入れて、煌々と満足感に浸るかもしれない。
むしろ、そこまで苦しみ精神も体も弱くなるのは本人の問題である。繊細なやつほど、自分で自分を陥れ、苦しむ羽目になる。という見方も出来なくはない。Kを出しぬく行為や、彼の言葉をそっくりそのまま返したりと、卑怯なことをしておいて、後から苦悩する。これは人間が弱いのではないか?『罪と罰』のラスコーリニコフもそんなふうに感じられる。
厳しくなるが、考えすぎによる精神や体の衰弱というのは一種本人のせいでもある。
自分もそういうタイプの人間だと最近気づいた。そしてある部分ではそれを改善しようと努力してる。だから、「考え過ぎてしまう弱い人間」という人と会ったら決して嫌いではないし、それもそれで健全な姿だと感じ、むしろ付き合っていく点では好意を抱くだろう。
『グレート・ギャッツビー』の語り部ニックも、金持ちの自分勝手さや自己中さ、傲慢さにうんざりしているし、作者も実際にそういう体験を飽きるほどしてきたという。
うまく生きるのは難しい。