【ルリユール倶楽部】 09 | 1000日単位で考える
2024年12月某日、ルリユール倶楽部は第9回を数え、今年最後の回を迎えた。毎度のことながら前々日まで何も進んでおらず、直前でジタバタする。第3回目の記録に「ルリユールが日常に馴染みつつある」と書いていたわたしは、何だったんだろう。ここ数か月はルリユールと日常がすっかり乖離しており、誇らしげな気持ちで綴ったあの一行が、もはや虚しい……。
わたしがいま注力したいのはルリユールなのだけど、編集の仕事が立て込んでくればそちらに労力を傾けることになる。編集という仕事が好きであることに嘘はないのに、それが生活のための「労働」である以上、何だかルリユールの時間が削られているような気になってしまう。とはいえ、暇になったらなったで、今度はルリユールどころではなくなるのは明白だ。いやはや、人と労働の間に芽生える感情は、実に複雑で移ろいやすい。
それはさておき、前々日には『若草物語』の表紙をエラガージュし、コンブラージュした。さらに前日には『モモ』の表紙貼りをした。こうなったら一夜漬けも一つのルーティンとして成立しているといえる……わけないか、と反省しながら本づくりハウスへ。
第9回目にできた作業は以下の通り。ちなみに、前回問題児となった『朗読者』は放置したままだ。
まずは『若草物語』に取りかかる。表紙の内側のコンブラージュ(革に囲まれた凹みを埋める工程)として貼った紙が乾いているのを確認し、今度はその紙の端にやすりをかけ、革と紙が重なることで生じるわずかな厚みを均していく《写真2枚目》。
やすりをかけたら、次は見返し貼りだ。シャルニエールを挟んで表紙側と本文側、それぞれに貼っていく《写真3枚目》。表紙側は革の端にぴたりと沿うように切って貼るのだが、このとき、髪の毛一本分のレベルで精密に切りそろえたとしても、糊を塗ればその水分で紙が伸びるのだからややこしい。どのくらい伸びるかは紙質と糊質と手の早さ次第で、結局は賭けだ。
職人仕事は、精密さが求められるわりには賭けの要素が多く、つまり、その精密さは理屈や計算ではなく経験でもってしか実現できない。汎用性という意味での合理性はまったくないのだけれど、属人的な合理性はどこまでも高められるという、完全なる「個」の世界だ。
つづけて、本文側の見返しを貼る。こちらは初期の段階ですでに糊づけしてあり、シャルニエールにかぶさる部分に糊を入れるだけだ。すると、ここでかよさんからアドバイス。「同じような紙を見返しに使ったことがあるけど、先に貼った部分とあとから貼った部分の境目にシワが入ってしまったから気をつけて」とのこと。何てこったい……。
シワができるのは紙の伸縮に差があったためだろうか。貴重なアドバイスを生かすべくいまのわたしにできることは、慎重にやる、これだけだ。糊を薄めにし、またなるべく奥まで入れ込むようにして、貼るやいなや金属板を挟んで重しをかけた《写真4枚目》。
見返しが乾くまでの間、『モモ』に移る。『モモ』は背バンドつきの総革装のため、昨晩表紙を貼ったあと、バンドの周囲に糸を巻きつけて固定してあった《写真1枚目》。この糸を切り《写真5枚目》、アンコッシュに水を含ませながら、少しずつ表紙を開く。
表紙を180度開いたら、ソーブギャルド(本文を保護するために綴じつける白紙)を外し《写真6枚目》、溝に残った紙片や糊を取り除く。ここまでやったところで、総革の背と平(ひら)の境目にある妙なシワに気がついた。これまでいろんなことをやらかしてきたけれど、これははじめてだ。
革剝きの途中でこの境目にやすりをかけるのだが、少々やりすぎたのだろうか。そういえば、革を剝きながら、表紙を貼りながら、「やたら伸びる革だな」と思った。こういう場合、やすりは控えめでいいのかもしれない。生きものの皮膚である革は、当然ながら一頭一頭違っている。それをうまく生かすには、それぞれの個性を見極めるだけのを眼力を養わなくてはならない。
30年以上ルリユールをつづけてきた師匠が「すべてうまくできた本など、一冊もない」といっていたのを思いだす。だとしたら、わたしなど「一工程だけでもうまくいったら御の字」というものだ。やればやるほど、ルリユールの底の深さに圧倒される。ルリユール沼に浸かっているつもりが、実は沼の畔の水たまりに足を取られているだけだったりして。
水たまりか……と自嘲気味になったところで時間切れとなった。片づけをしながら『若草物語』の見返しを確かめたら、シワなくきれいに貼れていた。これだけでまたうれしくなるのだから、われながら単純だ。
2024年のうちに5冊の製本工程を終えられたらと目論んでいたが、だめだった。まあ、積み残したまま年を越すのも仕方ない。ルリユールを語る最短時間軸は、1000日だと思う。年単位なんて、とてもじゃないが短すぎる。