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歴史探偵報告書#6 動乱の時代は真面目だけでは生きていけない。幕末:松平容保編

 皆さん、歴活してますか?私は毎日楽しみながらやってます!
皆さんに日本史の面白さを伝える活動をしております、歴史探偵Qです。

 今回の調査報告書は、最近読んで面白かった
「本郷和人」先生の著書「世渡りの日本史」パート4をご報告させて頂きます。
 パート4では「松平容保」という人物を主役として取り上げてまいります。

<報告内容>
1、本郷先生って誰?
2、この本の「コンセプト」
3、第五章:「時代の大転機を迎えた幕末:松平容保編」
4、調査結果

上記の内容で調査報告させて頂きます。

1、本郷先生って誰?

 皆さんは「本郷和人」先生はご存知ですか?
歴史好きな人間からしたら、よく見る名前であると思います。
私、歴史探偵Qの中では日本史四天王がおりまして、
 ①:千田嘉博 先生
 ②:磯田道史 先生
 ③:平山優  先生
 ④:本郷和人 先生 です。
 今回は、「本郷和人」先生に注目して参りましょう!

■本郷和人 先生

 東京大学史料編纂所教授、博士(文学)
1960年東京都生まれ、東京大学・同大学院で日本中世史を学び
専攻は中世政治史と古文書学。
「大日本史料(平安時代から江戸時代までの日本史の資料集)」の
第5編:承久の乱から鎌倉幕府滅亡までの編纂を担当している。
また大河ドラマ「平清盛」など、ドラマ・アニメ・漫画の時代考証にも
携わっている、非常に有名な歴史家。

2、この本のコンセプト

 世渡りの日本史 苛烈なビジネスシーンでこそ役立つ「生き残り」戦略

 この本の「はじまり」では…
「本書では、ビジネスに活かせるヒントに焦点を当てることにしました」
とのこと…


 歴史探偵Qの#1:自己紹介でも書かせて頂きましたが
歴史=暗記科目になっている現状がありますが…

 本郷先生が書かれた本書でも
歴史=暗記科目だと興味が持てないというのは当然だと…
ですから、「歴史にストーリーを取り戻す!」というスローガンを立てたいと
本郷先生自身、思っているとのこと。
 結果、この本書でリアルな人間模様を学び、様々な企みや陰謀渦巻く歴史を紐解き「人の世をうまく渡り歩けるようになる」処方箋、つまり世渡りの歴史が学べ、
現代に生かしていこうというのがこの本のコンセプトとなっています。

 それでは早速、やっていきましょう!

3、第五章:「時代の大転機を迎えた幕末:松平容保編」

<1>松平容保ってどんな人?


 松平容保という方は、江戸時代末期・幕末の大名であり、
陸奥国会津藩9代藩主(実質的には最後の藩主)。
京都守護職」という職についており今日の治安維持を任せられた人物であり、
有名な「新選組」を預かっていた藩の藩主である。

<2>本書での松平容保の扱われ方:巻き込まれ体質「容保くん」

(1)動乱の時代を生きた松平容保

 まずは、松平容保が置かれていた状況を簡単ですが、ご紹介します。
江戸時代末期、「幕末」というのは、まさに【動乱】の時代と
いっても過言ではありません。
 藩・身分は違えど、どこをとっても大河ドラマの主役になれる人が
ゴロゴロいます…(史料が残っているということもありますが…)

 それぐらい濃厚な歴史の中心にいたのが「松平容保」だったのです。
なぜ松平容保が中心にいたのか…名前の通り容保は徳川家康の血を引く、
エリート大名です。幕府の中心として、徳川慶喜・松平春嶽などとともに
幕府運営を行なっていました。

 しかし、真面目でエリートな容保が悲劇に見舞われるかと言うと…
薩長が暴れまくった」からです。
明治維新」の為と言いますが京都などで幕府の人間や幕府の味方をする人間を
暗殺するなど…やっている事はテロリストと同じでしたので、勝てば官軍って
言うのは本当に都合が良いですよね。(別に薩長が嫌いな訳ではありません。)

 ではなぜ?薩長だけでなく、倒幕に動いた西南雄藩たちはここまで力を持ち、
積極的に動けたのか?

 これには初代将軍:徳川家康が大きく関わってきます!

(2)徳川家康唯一の「失策」??

 先ほど、薩長をはじめとする「西南雄藩」が積極的に行動をしていたとお話し
させていただきましたが…それはなぜか…御覧の皆さん「日本地図」を
思いだしてください。
 
「四国・中国・九州地方」には薩摩、長州、土佐、肥前と言う西南雄藩が
固まっています。
 それはなぜか…家康は関ヶ原の戦いで敵や、味方だけど怪しいなと思った
外様大名」は江戸から遠ざけました。江戸時代の太平の世であればその策が
はまったのですが…なんせ時代は動乱の幕末…まさか長州と薩摩が手を結ぶ
なんて…あの時代の徳川家康でも考えつかなかったようです。

 少しでも西日本の方に譜代大名や親藩を置いていればと思ったら悔やんでも
悔やみきれません。

 また、家康の失策は西南雄藩の配置だけではなかったのです。
家康は関ヶ原の後、長州の毛利家はお家取り潰しの予定が結局36万石への改易。薩摩に至っては西軍の味方をしたのに「本領安堵」と正直…甘い処分でした。
歴史にIFはありませんが、あの時毛利の首を切り、薩摩を転封などをして力を削いでいたら江戸時代はもっと長く続いていたかもしれません…

 結局家康は、日本の端っこの方はどうでも良いと思っていたかもしれません。
お家断絶や転封をしたらまた戦争になるかもしれないと思いこのようなお裁きに
なったのかもしれません。

 結果、260年後の容保達(幕府側)が苦しむ結果となりました。

 この状況を現代に当てはめると、「あとでやる!」と子供の頃はお母さんに、
社会人になったら、上司や自分自身に言っていませんか?
こう言う場合…結局やらなかったり、ギリギリになり焦ってしまう状況に陥り
正しい判断ができていないことが多いと思います。

 やれる事はすぐやる。天国で家康もそう言って言っていると思います。笑

(3)尊王攘夷という「スローガン」

 先程までは、容保や家康など幕府側の人間を紹介してきましたが…
ここでは明治維新を行なった倒幕側の状況をお話しします。

 皆さんはなぜ薩摩や長州などが倒幕へ動き、「明治維新」という時代の大きなうねりを作ることができたのでしょうか??
お金があったや徳川家への恨みがあったなど色々要因はあると思いますが、
 一番大きいのは結束力です!「尊王攘夷」というスローガンの元、一致団結することができたからだと考えます。

 この例を出すのは非常に心が痛いですが、歴史が大きく動くのは「外圧」によるものです。現在ウクライナはロシアに侵略され、多くの方が立ち上がり母国を守ろうと命がけで戦っています。
 幕末でも欧米列強からの外圧から日本を守ろうと多くの若者が立ち上がり、
このままではマズいと行動を起こしました。そこで、日本を開国し貿易をしよう
とは言えず、外国から日本を守るということで「攘夷」という大義名分
生まれました。

 次に「尊王」ですが、これは天皇や朝廷を尊ぶという意味であり、その背景には攘夷を行うのに幕府が邪魔な存在であったことが大きな要因です。

 当時の日本の国学は「儒学」であり道義上守らなくてはならない本分があり、農民や町人の上に武士がおり、さらにその上に徳川幕府・将軍がおり、この本分は
何人たりとも犯してはならない聖域だったのですが…

 いざ、攘夷となった際に幕府は開国をすると決定し、攘夷を行う大義名分が無くなってしまいました。儒学の道義上、徳川家を否定する事はできない…

 そこで徳川家への上位兌換として選ばれたのが「天皇家・朝廷」だったのです。
当時の孝明天皇は「攘夷派」だったので、そこを利用し「天皇のいう事は絶対!」という事で徳川家へではなく、天皇・朝廷を敬う「尊王」という大義名分ができ、
尊王攘夷」というスローガンが完成し、倒幕へひた走るのです。
 結果として、薩長はこの「尊王攘夷」というスローガンを掲げ、倒幕へひた走り官軍を組織したのに対し、幕府側は「徳川家への恩」という薄い内容で軍隊を組織しましたが…敗北を重ねると続々と新政府側へ降伏し、江戸幕府の終焉を
迎えました。

 これを現代に置き換えますと、ロッテの「お口の恋人」など
企業の理念やスローガンをコマーシャル等で見かけることがありますが、
これは非常に大事な事で、社内に理念を共有し今後の経営戦略の軸とするだけでなく、社外へは企業の認知度向上・イメージの向上を図り、生き残り戦略の一つとして使う会社が多いと思われます。
 これからの時代は、社内の力を一致団結させ、社外へのアピールが上手な企業しか生き残れないと思われます。

(4)幕府のしくじり…

 上記の説明である程度、時代背景や立場の違う人達の動きをわかっていただけたと思います。(説明が下手ですいません)
 
 ここでは、当の本人である「幕府のしくじり」をご紹介します。
先程の「尊王」のところでいくら外様で力のある「西南雄藩」が天皇・朝廷が大事と言ったところで大した力は持てません。
 しかし、幕府も天皇・朝廷の復権に助力してしまいました。
それは大老:井伊直弼がペリーと日米和親条約を締結する際、
朝廷へ「条約を結んでもよろしいでしょうか?」とお伺いを立ててしまいました。

 一見、なんの問題もないかと思われますが…江戸幕府が始まって以来、政治経済はもちろん、外交権限も全て幕府が持っており、天皇をはじめ朝廷の出る幕はなく全て幕府が独断で決め、朝廷へは事後報告でしたが、ここにきてなんと幕府がお伺いを立て、朝廷に出る隙を与えてしまったのです。
 ここから朝廷は力を盛り返し、何にでも口を出してくるようになりました。
安易に幕府は朝廷にお伺いを立てたことにより、主導権を渡してしまい…
無駄に朝廷の顔色を伺いながら幕府運営をせざるを得ない状況となりました。
この状況が尊王攘夷の活動に影響を及ぼしてきます。
 井伊直弼のしくじりは幕府にとって非常に大きいものになりました。

(5)真面目に仕事をしても評価されない容保くん…

 尊王攘夷のうねりが生まれ、朝廷の力が徐々に盛り返しつつある状況で容保は
京都の治安維持を任されることになり容保は「京都守護職」に任命されます。
これは容保が孝明天皇から非常に信頼され、関係を構築できた容保の使命とも言え非常に誉高い仕事と思われますが…任された京都がテロ頻発地域で最前線であった為、会津藩・容保はババを引いたようなものでした。
 尊王攘夷の志士なんていう事は立派だが、テロ行為・ゆすりたかりが頻繁に起き
会津藩の藩士だけでは間に合わないという事で「新選組」を結成し、京都を守る、
幕府を守る、秩序を守るというような真面目な仕事ぶりを見せます。

 しかし、この真面目な仕事ぶりが尊王志士達の恨みを買ってしまい…
戊辰戦争では朝敵とされてしまい…会津戦争では徹底的に攻撃され取り潰しとなってしまいます。

 ここでわかる事は、時代が変わる激動な時は真面目に仕事している人は
飲み込まれがちという事です。
 幕末や明治維新の時代は「西郷隆盛」や「大久保利通」、「坂本龍馬」など
時代を変えた人をもてはやし、変革というエネルギーだけで乗り切った感は
ありますが、その裏では本当に優秀な人達が社会から抹殺されていったことも
歴史の事実としてあったことを忘れてはいけないし、学ばなければ容保公に申し訳ないと私自身も思いました。

4、調査報告書:まとめ

 真面目に職務に励んでいたのに評価されず、アピールが上手い人が上司に気に入られて出世するといった事なんてザラにある話だが、スケールの大小はあれど
容保公は前者であった事は間違いない事実ですが…
 人間として信用できるのは間違いなく前者の容保公であっただろう。
証拠として、容保公は死ぬ間際まで孝明天皇からいただいた手紙を首からぶら下げた袋に大事そうに入れていたそうです。そういう人は信用できる。

 重複するかもしれませんが、歴史というのは「偉人」や「ヒーロー」を
期待しがちですが…決してそれだけではありません。
 その裏では普通の人が普通に生きて働いていてできた歴史もあるということを
容保公が教材となって教えてくれているような気がします。


以上
調査報告完了
 


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