見出し画像

調査報告書#4:謙信はカリスマではない??

 皆さん、歴活(歴史活動…初めて言いましたが…)してますか?
皆さんに日本史の面白さを伝える活動をしております、歴史探偵Qです。

 今回の調査報告書は、前回に引き続き…最近読んで面白かった
「本郷和人」先生の著書「世渡りの日本史」パート2をご報告させて頂きます。

<報告内容>
1、本郷先生って誰?
2、この本の「コンセプト」
3、第二章:「一寸先も見えない、戦国時代:上杉謙信編」
4、調査結果

上記の内容で調査報告させて頂きます。

1、本郷先生って誰?

 皆さんは「本郷和人」先生はご存知ですか?
歴史好きな人間からしたら、よく見る名前であると思います。
私、歴史探偵Qの中では日本史四天王がおりまして、
 ①:千田嘉博先生
 ②:磯田道史先生
 ③:平山優 先生
 ④:本郷和人先生 です。

 今回は、「本郷和人」先生に注目して参りましょう!

■本郷和人 先生

 東京大学史料編纂所教授、博士(文学)
1960年東京都生まれ、東京大学・同大学院で日本中世史を学び
専攻は中世政治史と古文書学。
「大日本史料(平安時代から江戸時代までの日本史の資料集)」の
第5編:承久の乱から鎌倉幕府滅亡までの編纂を担当している。
また大河ドラマ「平清盛」など、ドラマ・アニメ・漫画の時代考証にも
携わっている、非常に有名な歴史家。

2、この本のコンセプト

 世渡りの日本史 苛烈なビジネスシーンでこそ役立つ「生き残り」戦略


 この本の「はじまり」では…
「本書では、ビジネスに活かせるヒントに焦点を当てることにしました」
とのこと…


 歴史探偵Qの#1:自己紹介でも書かせて頂きましたが
歴史=暗記科目になっている現状がありますが…

 本郷先生が書かれた本書でも
歴史=暗記科目だと興味が持てないというのは当然だと…
ですから、「歴史にストーリーを取り戻す!」というスローガンを立てたいと
本郷先生自身、思っているとのこと。
 結果、この本書でリアルな人間模様を学び、様々な企みや陰謀渦巻く歴史を紐解き「人の世をうまく渡り歩けるようになる」処方箋、つまり世渡りの歴史が学べ、
現代に生かしていこうというのがこの本のコンセプトとなっています。

 それでは早速、やっていきましょう!

3、第二章:「一寸先も見えない、戦国時代:上杉謙信編」

 皆さんの<上杉謙信>のイメージはなんですか?
「戦国時代の軍神?」「武田信玄のライバル」「義に厚い武将?」
「戦国一の戦上手?」「毘沙門天の生まれ変わり?」などなど
良い印象をお持ちの方が多いと思いますが…
 本書では、上杉謙信の良い意味で言うと「人間味」を、
悪く言うと「残念」な部分が書かれています!
 
 それらをご紹介させていただきます。

■上杉謙信とは?

 戦国時代に越後国(現在の新潟県)など北陸地方を支配した武将・大名。
関東管領(1561年 - 1578年)山内上杉家16代当主。越後を統一したほか、関東や北信地方、北陸地方(越中国以西)に度々出兵した。戦国時代でも戦上手とされ、その戦績から後世、軍神や、「越後の龍」 などと称された日本で5本の指に入る有名な武将となっています!

本書での上杉謙信の取り扱われ方
 上杉謙信の人となりをおさらいしたところで…
本書での上杉謙信の書かれ方をご紹介いたします。

<1>上杉謙信が治めていた「越後」という国の状況

 先程の上杉謙信の紹介でもありました、越後国は今の新潟県です。
言わずと知れた日本一の米どころであり、米を使った煎餅や地酒なども有名で
美味しいものがたくさんある山の幸も海の幸も「豊かな国」というイメージが
あると思います。

 しかし、謙信の時代はあまりお米が取れませんでした。
越後の国は面積が大きく、当時は5本の指に入る大きさであったのに対して、
石高は35万石程度だったと言われています。他の武将と比較してみましょう。

 → 一説によると戦国の覇者「織田信長」が治める、「尾張国」は面積は
  今の愛知県の3分の1の大きさで60万石の石高があったそうです。
 
 これを見ると、いかに謙信の越後国の石高が低く、
逆に信長は石高・立地(京都に近い)ともに非常に恵まれており、
天下取りに近いことがわかります! 

 → そして「石高」は出兵数にも関係しており、
  帝国陸軍が戦争の歴史を編纂した際に40万石で1万人の兵隊を
  編成することができるという試算を出しています。

 これに当てはめると、信長は1万5千の兵隊を用意することができるのに対し
謙信は8千人程度の兵隊が限界でした…
 さらに信長は後に、美濃国、北伊勢を治めますので合計で150万石、
兵に換算すると4万人という巨大な軍隊を用意することが可能となりました。

 この結果を見ますと信長が天下統一に近づけたのは、
都に近い尾張国の「立地」と尾張、美濃、伊勢という「生産性が高い」
領土を持っていたということが言えます。

 ここからわかることは、現代のようにITが発達しリモートワークが
当たり前になれば、日本全国どこに住んでいようが仕事が
できるようになりましたが…
 戦国時代はface to face が基本であったので立地に左右される
ということが大きいので立地ガチャが武将の運命を左右するものとなります。

<2>下克上体質だった上杉家

 上杉謙信は、元々越後の守護代:長尾為景の子「長尾景虎」と言いました。
守護代というのは、会社でいうと「副社長」のポジションであり、
社長のポジションである、守護の上杉家を支える家に生まれました。

 謙信の父親である、長尾為景は「下克上の権化」と言われる人物で
自分を潰そうとした主君を倒し、残された子供たちも潰していき
越後を支配していきました。
 その後、謙信が後を継いだのですが、どうして「長尾」ではなく
「上杉」を名乗っていたかというと…
 簡単に説明しますと、上杉家は越後の上杉家だけでなく、扇谷上杉家など
複数あり、また別の関東管領の上杉家が北条家(鎌倉の北条とは血縁ではない)に
攻撃され、北条を倒すべく謙信に助けを求め…
そのまま、関東管領の職も譲り受け「上杉」を名乗ることになりました。

  → ここで現代に通じることは、「副(サブ)」のポジションにいる人には
  突然チャンスがやってくるということです。

<3>上杉謙信の本当のライバルは関東の「北条家」だった!

 上杉謙信のライバルが「北条家」?
何を言っているんだ、歴史探偵Qよ!
上杉謙信の生涯のライバルといえば「武田信玄」だろ!
読んでる皆さんのお言葉よくわかります、私も本書を手にとっていなければ、
皆さんと同じツッコミを入れていたと思います。

 確かに、武田信玄とは「川中島の戦い」で何度もぶつかり、しのぎを削ってきた
相手であるとは思いますが…
 一方で武田とは違う武将の領地に出兵していたのです。
 
 それが北条家が治めていた関東だったのです!
ではなぜ?謙信は武田と戦いながら、関東の北条家の領地を攻めたのか…

 →その理由は「越後が貧しい国」だったからです…
石高は35万石、越後国は大雪が降り、ひとたび農作物が凶作になってしまうと
冬を越す用意が大変であり、食料も慢性的に不足しがちである。
 すると謙信が治める領地のちょっと先に雪が降ることが少なく、
土壌豊かな関東平野が広がっていました。しかも自分達の方が戦いは強い…
 この状況なら、謙信だけでなく私も、読んでる皆さんも豊かな土地「関東」に
出兵したくなりますよね?
 ですから、謙信は関東出兵を繰り返し、越後国の問題を解決する為に
繰り返し出兵を行っていたと考えられます。

 これを現代に置き換えて考えますと、商売を始める際にマーケットを
「ゼロから開拓する」よりも「ある程度規模」があるマーケットに参入した方が
前例があるので、戦略も集客も収益も作りやすくなります。
 さらに自分達で商売を始めなくても、結果を出している会社を買収し
自分のものにしてからマーケットに参入した方がマーケット内の陣地が
取りやすく商売の規模が大きくなる確率、失敗するリスクが減り、
儲かる確率が上がると思います。
 謙信は、それを戦国時代にわかってやっていたのか、
食糧目的でやっていたのか…わかりませんがそういう戦略をとっていたのです。

<4>上杉謙信は策なきリーダーだった?

 上記の説明で、謙信は武田家だけでなく、北条家とも戦う「両面作戦」という
危険な作戦を行なっていたことはわかっていただいたと思います。
 では武将がわざわざ、農民を召集し「お金・食糧」を大量に使い戦いを行う際、自分の領土を拡大させる為ですが…謙信は領土を増やせませんでした。

なぜ…危険な作戦を行なっていたのにも関わらず、領土はなぜ増えなかったのか…
 
→ 答えは単純です。
 謙信は攻めた先で「略奪をやり過ぎた」からです。
 普通に考えて…勝手に攻めて来た人の支配下には入りたくないし、
 謙信は「略奪」という悪事まで行っていたのです。
 (この時代の略奪は当たり前ですが…)
 
 では他の大名たちはどのように戦を行い、領土を拡大させようとしていたのか…
・武田信玄の場合… 一度は皆殺しにしてしまいますが、のちに自分が
          困ることを知り反省。地道に攻略していく作戦に…
・北条早雲の場合… 「ここが北条家の領地になったら年貢を下げるよ」
          と言い、領民を味方につける作戦。

 これらを見るといかに謙信は戦が強いあまり、策を練らず
強行的な手段(略奪)をとってきたことがわかりますよね…
 もちろん越後の民の為にやっていた事であったり、
謙信の軍勢が強くないとできない事ですが…
このような話を聞くと最初のイメージにあった上杉謙信は「義」の人
だったのか…分からなくなってきました。
 

<5>謙信、生涯1番の失策

 最後に、謙信の制作には一貫性がなく、策を練らず、戦が強いばかりに略奪を
行う戦バカで後のことを考えなかった証拠が「後継者」を決めなかった事です。
 謙信が亡くなったのは49歳の時…現代の平均寿命から考えると早死にですが、
人間50年と言われた時代ですから決して早死とはいえません。
ですが、謙信は跡取りを決めなかったのです。

 普通の会社であれば、社長が何歳であろうが後継者問題はスムーズにいくよう
考えますが謙信はそれを怠ったのです。
 さらに謙信には自分の姉の子・甥っ子にあたる「上杉景勝」という血縁関係の
後継者がいたにも関わらず、一時期同盟を結んでいた北条家から送られた
北条氏康の子供を、同盟解消後も殺す事なく、なんと自分の養子にし、さらには
昔の自分の名前「景虎」まで与えてしまったのです。
 これでは家臣達は血縁関係のある景勝にするのか、自分の昔の名前を与えた景虎にするのか、どっちにするのか分からなくなりますよね?
 結果、謙信は後継者を決めることを怠ったどころか「争いの種」まで
作ってしまったのです。

 これにより後継者候補が2人となり、この2人が謙信の死後…越
後を二分する「御館の乱」という後継者争いを起こし…
1年以上戦いが続き、貧しい国であった越後がさらに厳しい状況になり
上杉家の力が一気に凋落して行ってしまったのです。

 ※「御館の乱」とは… 謙信死後、上杉家の家督争いを共に養子であった
           「上杉景勝」と「上杉景虎」との間で起こった御家騒動 
           であり、結果として「上杉景勝」が勝利し上杉家の
           当主となった。
           戦いの名前の由来は、関東管領の居館を
          「御館」と言いその周辺での争いから名がついた。

 この戦の影響は、武田家滅亡の遠因となり、北条家も景虎側に援軍を送り、
織田家は争いの隙に進軍してくるなど様々な武将にに影響を与え、
当の上杉家の力は衰えていくだけであった。

4、調査結果(上杉謙信編)

 ・上杉謙信の無類の戦上手であり、頼りになっていたかもしれないが…
  他ではダメな部分が目立ち「カリスマ」とは違う感じるような人であった。
 
 ではなぜ、そこまで持ち上げられたのか? 
 → 武田家の軍学書「甲陽軍鑑」が出て武田信玄の評価が上がっていくと
   川中島で引き分けに持ち込んだ謙信も大人の事情で評価が上がり
  「カリスマ化」されたのかもしれない。

・自分だけでなく、後の人のことも考えて行動しなければ優秀な人間といえない。
 → 謙信が後継者をしっかり決めていれば上杉家は徳川家康と対等に
   戦うことができ、豊臣政権を守れた可能性もあるし…
   さらには「IF」の話の究極かもしれないが、
  「上杉幕府」ができたかもしれない。
   どんな時代も減らせるリスクは減らすべきであることを
   上杉謙信から学べました。

調査報告完了
乱筆、間違い等はご容赦ください。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?