伊勢遺跡はこんなに面白い!②
伊勢遺跡の注目ポイントは他にもあります。
伊勢遺跡から北西約2kmの所に下長遺跡(守山市古高町)、また南西約1.7kmの所には下鈎(しもまがり)遺跡(栗東市下鈎)があります。
(※↓の「巨大集落 3.国の成り立ちを探る遺跡群」参照)。
下長遺跡では首長の居館や貴人が持つ儀仗のほか、丸木舟より大型の準構造船の一部や、北陸や東海、山陰、瀬戸内地方など各地の土器も見つかり、琵琶湖を介しての交易の拠点だったと考えられています。
また下鈎遺跡では銅製品の破片が数多く出土し、金属器生産の拠点として栄えたことが分かっています。
伊勢遺跡を含めたこの3つの集落は、単独で存在していたのではなく、まとまってひとつの「クニ」を形成していた可能性が高いのです。
そのことから、ひとくくりに「伊勢遺跡群」とも呼ばれています。
具体的には、伊勢遺跡が政治と祭祀、下長遺跡は交易、下鈎遺跡は金属・工業生産を担ったというものです。
現代に置き換えるなら、伊勢遺跡が皇居(方形区画)&国会議事堂(円形祭殿群)で、下長遺跡が丸の内・銀座&港湾施設、下鈎遺跡が京浜工業地帯といったところでしょう。
琵琶湖に注ぐ野洲川下流域では、これまで弥生前期の服部遺跡、弥生中期の下之郷遺跡、そして弥生後期の伊勢遺跡など、時代ごとに巨大な遺跡がつくられています。
守山市や隣接する野洲市、栗東市、草津市など10キロ四方の中に、弥生時代に遺跡が約120か所も見つかっていて、「弥生銀座」と言っても過言ではありません。
それを可能にした理由は、それだけの人口を養える豊かな農業基盤があったからです。
今から約2500年前に水田稲作が伝わると、水が豊富な湖岸や川岸付近で水田がつくられるようになりました。
その点琵琶湖と野洲川によって形成された三角洲の湿地帯は、稲作技術が未熟な弥生時代の米づくりには最適の場所だったようです。
安定して米を生産できることで人口も増えて、やがて力を備えた大きな国に発展していったのです。
琵琶湖東岸では、過去にも特筆すべき発見がありました。
昭和30年代、野洲川を挟んで守山市の対岸に位置する野洲町(現在は市)大岩山地区では、東海道新幹線の造成工事の際に、大小合わせて24個もの銅鐸(国宝)が見つかっています。
注目されたのは、近畿式銅鐸と東海地方の三遠式銅鐸が一緒に埋められていたことです。
このことは、弥生時代に主流だった銅鐸祭祀から、邪馬台国時代の銅鏡祭祀に代わる時代の大きな転換点として捉えられています。
しかし――
残念ながら学界では「邪馬台国=伊勢遺跡」という声はまったく聞かれません。
せいぜい「邪馬台国時代前夜に発達」とか「邪馬台国前夜の王都」という程度です。
それはなぜか――?
ひとことで言えば、年代が違うからです。
伊勢遺跡が栄えた時期は1世紀から2世紀末頃まで。3世紀(西暦201年~)に入ると衰退していったと考えられています。
それに対し、邪馬台国が歴史の舞台に登場するのは景初3年(西暦239年)。
女王卑弥呼が魏の明帝に使者を送ったと「魏志倭人伝」に記されています。卑弥呼の名は「倭人伝」の243年、247年にも見られます。
つまり女王卑弥呼が歴史の舞台に登場した頃には、伊勢遺跡はすでに衰退していた、と考えられるわけです。
なので、大多数の専門家が「伊勢遺跡は邪馬台国"前夜”の王都」と考えるのにも、それなりの根拠があるというわけです。
(つづく)
★見出しの琵琶湖の初日の出の写真は、みんなのフォトギャラリーから、 nuancecraft さんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。