邪馬台国は伊勢遺跡②
前回、伊勢遺跡が邪馬台国の候補地には挙がらなかった理由が「時代が合わない」から、という話をしました。
伊勢遺跡は1世紀末から2世紀末にかけて栄えた遺跡で、西暦200年頃にはすでに衰退していたと考えられています。
つまり『魏志倭人伝』に卑弥呼が登場する3世紀半ば以前の遺跡なので、邪馬台国との関連性は薄いという判断です。
遺跡の発掘調査を行う場合、出土した地層に加え、生活用品の遺物の多寡が判断の材料になります。それによって「いつの時代の遺跡で、どれぐらいの規模だったか」を知る重要な手掛かりになります。
同じ守山市内の下之郷遺跡や下長遺跡では土器や木器などの遺物が大量に出土しています。
ところが伊勢遺跡の場合、日用品の遺物がほとんど出土していないのです。これはきわめて珍しい特徴です。特殊といっていいかもしれません。
だから2世紀末には衰退していたと考えられたわけです。
しかしその「衰退」という判断には、疑問があります。
伊勢遺跡の円周状に配置された祭殿(掘立柱付き高床式大型建物)群が、伊勢神宮の神明造りと同じ構造を持っていたことも前回紹介しました。
繰り返しになりますが、伊勢遺跡の祭殿は伊勢神宮が創建される500年も前に建てられています。その意味では伊勢遺跡こそが伊勢神宮の源流だったと言って構わないでしょう。
ここが伊勢神宮と同様に特別な場所、「聖域」だったと考えれば、生活痕が少ないのはむしろ当然です。
祭殿群に囲まれた円の中央部には、柵で四角く囲われた一角(方形区画)があり、L字型に配置された大型建物が4棟建っています。
最大のものは86平米もあり、主殿とみられています。柵のすぐ横には楼観のような高い建物も建っています。
『魏志倭人伝』には、女王となって以降、卑弥呼が人前に姿を現すことが少なかったと書かれています。一人の男子のみが飲食の世話などで出入りを許されていたとも。
普通に考えれば、柵の周りには警護する兵士もいたでしょう。建物の中も外も常に掃き清められ、ごみ一つ落ちていない場所だったに違いありません。
ここは誰が考えても「聖域」、つまり「王宮」だったのです。人が住んだ痕跡がほとんどないために、「衰退していた」と判断されたのではないでしょうか?
さらに言えば、方形区画(王宮)をぐるりと取り囲む30棟(推定)の高床式建物群は、邪馬台国を構成する30の国々の大使館、という推測もできそうです。
伊勢遺跡が最も〈栄えた〉2世紀後半とは、「倭国大乱」の終息時期とぴったり符号します。
倭国(日本)史上初の大規模な戦争「倭国大乱」を収めたのが卑弥呼であることは、『魏志倭人伝』をはじめ中国の史書にも記されています。
柵で巡らされた宮殿をぐるりと取り囲む推定30の祭殿が持つ意味。
それは偉大な女王の下、大きな国も小さな国も、等しく平等に平和を誓った場所である、という刻印なのではないでしょうか。
★見出しの写真は伊勢神宮。みんなのフォトギャラリーから、 yu_catsさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。