『ライティングの哲学』を実践して拡張する ーーHIP HOP・デザイン・にじさんじ(フミ様・町田ちまさん)
『ライティングの哲学 描けない悩みのための執筆術』を読んで、フーコーや、アウトライナーといったことは理解はしきれていないのだが、中の対談の熱さに打たれて、思わずペンを取っている。
書くことは特に決まっていないが、この本に書かれていることは、あくまで著者の四人が、それぞれのやり方で罪悪感や葛藤、キリのない修正欲と立ち向かった軌跡である。だとすれば、次に行われるべきは、この本を読んだ人々による変奏だろうと思う。
というわけで、この本に書いてあったことをなんとなく頭に置きながら、勢いで、自分自身が持っている例に照らして考えてみたいと思う。私の場合、ライティングそのものというより、文字と音楽やデザイン、にじさんじ(動画)の関係性を考えたいと考えている。
『ライティングの哲学』を読んで、最初に思いついたのは爆風スランプの『Runner』。メンバーとの別れを歌ったこの曲は、最初からある種の諦めを受け入れ、走り出していく
HIP HOP ーー韻とリズムさえ合っていれば意味はなくてもOK(意味は後からついてくる)
今人気のラッパー、Creepy Nutsはいくつかのフレーズを与えられたら、それを含めたラップを作り上げる即興ラップ芸を得意としている。R指定は元々、ラップバトルの王者だった
HIP HOPを聞いていると分かってくるが、究極的には韻を踏んでおけば、どんなものでもラップと呼んでよい。楽器すら必要のない直観だけで出来る身軽さこそ、現在アメリカでHIP HOPが猛威を振るっている原動力でもある。よく誤解されているように、HIP HOPはバトルで戦うためのものだけではない。
ジョイマンは、最強のラップバトルを繰り広げるのではないかと言われている
晋平太さんによれば、最初は最悪、リズムに乗って声を出しておけばラップと呼んでよいという。この軽さがHIP HOPの良さである。おそらく、この軽さは詩のよさでもあり、部分的には「美文」と呼ばれる散文にも適用できると感じている。
この二つの曲、究極的には言いたいことは「寿司が食べたい」だけである。
デザイン ーー構図やグリッドは「フレーム」か
最近読み始めた、ブックデザイナーの松田行正さんは著書『デザイン偉人伝』で、マヌーツィオ、等伯、ロトチェンコといったトリミング・レイアウト・タイポロジー・三原色・黄金比といった、デザインに使う王道の構成について、ひたすら集める本を作成されていた。
『ライティングの哲学』では、アウトラインを分割してフレーム(枠)を作り、その中でフリーライティング(自由に書く)ことを奨励している。これは、視覚表現においては松田さんの集めたようなデザインの基本に収束していくのではないだろうか。ペンの持ち方や入り抜きといった特徴は人によって完全にバラバラである。そこでGridや黄金比といった、決められた良さに従うことで、人に伝わる個性にするとともに、大量のデザインを作り出せる。
映画やアニメの構図もそのひとつ
これはにじさんじの三原色
にじさんじ ーーただ○○するだけで、企画になる
バーチャルユーチューバー事務所で有名なにじさんじは、○○するだけという謎の放送を突発的に行う。
そうそれだけである。フリージアを9時間歌い続けたり、のりたまの具を分別する『だけ』である。これだけで企画になる。
昭和十九年ノ夏初メ段段食ベルモノガ無クナッタノデセメテ記憶ノ中カラウマイ物食ベタイ物ノ名前ダケデモ探シ出シテ見ヨウト見ヨウト思イツイテコノ目録ヲ作ッタ 昭和十九年六月一日昼日本郵船ノ自室ニテ記 さわら刺身 生姜醤油
たい刺身
かじき刺身
まぐろ 霜降りとろノぶつ切
ふな刺身 芥子味噌
べたらノ芥子味噌
こちノ洗い
こいノ洗い
あわび水貝
小鯛焼物
塩ぶり
まながつお味噌漬
あじ一塩
小はぜ佃煮
くさや
さらしくじら
いいだこ (略) 内田百閒『餓鬼道肴蔬目録』
夏目漱石門下生の内田百閒は『餓鬼道肴蔬目録』で、好きな食べ物を並べただけ(!)の随筆を残している。そう、これもエッセイと呼んでしまっていいのである。
おわりに
Creepy Nutsの『バレる!』は1番で自分の才能が「バレる」こと、2番で「自分の才能が」バレることを歌にしている。R-1の入場曲に使われている
現実はラップバトルやR-1ではないので、ナンバー1の味を探す必要は普通はない。ただ人生は一回切りであり、アイデアや新鮮さを忘れれば、退屈にはなってしまうだろう。
『ライティングの哲学』では、アウトライナーをはじめとしたいくつかの制限をつけ、取返しのつかないところに行くこと、諦めを強制的につかせていくことで、執筆することを描いていた。ところで、そのモノサシは、おそらく歴史の偉人たちが行ってきた手法の中に潜んでいる。『独学大全』に描かれていた私淑は、どちらかというと人物への「愛着」を元に学習のモチベーションを駆動していた。しかし、松田氏の本にもあるように、相手がどのようなモノサシを使っているか、どのような制限や法則に従っているかを見ることは、違う「私淑」の形になりそうである。
『ライティングの哲学』の章末に描かれていた、千葉雅也氏の述べた書くための「勇気」は、他者である言語と自分との間で悩むことの先にあるものだった。それは、「言語の歴史」や「法則」という他者を自分の運命として受け継ぐ、その度胸に注がれているのかもしれない。ヒップホップなど、ライティングから少しはみ出した例は、その法則の可変性を、よく私たちに見せてくれる。
【この文章は50分で勢いで書きました】
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