紡ぐ言葉が変化した
分かんないけど、ふとnoteを開いた。
こうやってスマホで思ったことをつらつらと書くのはとても久しぶり。
2、3年前くらいに半年間毎日noteを書いていた時がある。その時の文章は、今でもたまに誰かに読まれていて今日、Twitterで昔私が書いたnoteにいいねがついたらしく通知が来た。
それがこれ↓
3年前の自分なんて今と比べて思考も感性も幼稚だろうなと思ったんだけど、 すごく自然にスッと心に入ってくる文章で、言ってることも今の自分に必要な言葉だった。
本当その通りだなと思うし、この文を書いた時よりも私は物事の曖昧さを曖昧なまま感じたり、直感を信じて進むことに恐怖を覚えるようになっていると思う。
前はもっと自由に発想してた、もっと自由に思考してた、もっと自由に世界を感じてた。心も思考も今より繊細だけど今より豊かだった気がする。
今はどうだろうか。
会社を建ててもう直ぐ2年。右も左も分からないまま何となく会社を建てた頃に比べたら、少しは自分の会社を動かせている感覚がある。
1円稼ぐのだってどうやればいいか分からない時に比べたら、自分の力で価値を作ってお金を産むことが出来ていると思う。
しかも、何度も何度もやろうとして失敗してきた自分のアイデアを形にすることも少しずつ出来てきている。
やっと創りたいサービスの種を見つけて、それを具現化するためにスタートアップとして事業をやり始めて、ずっと避けてきた投資家から資金を集める行為をし始めたのが昨年末から今年にかけての大きな変化だ。
人とのミーティングが増えた。
それに比例してサービスや今後の戦略の説明をする場面も増えた。
人前でプレゼンする機会も増えたし、大きな商談をすることも増えた。
確かに2、3年前の自分からしたら、現実は良い方向に進んでいる、気がする。
けど、なんとなく、これでいいのか?と引っ掛かる何かがあることも感じていた。
そのヒントが、3年前の自分が書いたあのnoteにあるのかもしれない。
今の私が喋る言葉は、理解されて受け入れられることを意識しすぎている。成功する方法、うまくいく方法だけを考えて言葉と行動にしてしまっている。
もちろんそれって大事だよ?
成功確率が低いスタートアップをするんなら、命を燃やしてサービスに自分のエネルギーを注ぎ込まないといけない。
それは理解しているしその覚悟はある。
でも、私の大切な「感性」が消えてきている。
昔noteを書いていた時の、自由な思考と自分が紡ぐ自由な言葉はどこに行ってしまったのか。
今こうやって文を書いているこの瞬間も、前とは違ってすごく言葉が出にくいし、この言葉を使っていいんだっけ?って周りを気にしていることに気づく。
理解されなければいけない場面、説明責任が求められる場面が増えたからだと思うけど、このまま大人になっていくのはだめだ。
うん、ダメだと思う。
昨日、代々木公園で箱庭を作るワークショップに参加した。そこでは、代々木公園に落ちてるものを拾って小さな箱庭をそれぞれ作るんだけど、創り終わって参加者が自分が作った作品を説明するときに、みんなの感性を凄く感じた。
みんな全く違う視点、一人一人の持つ視点で作られた作品が凄く面白くて、紡ぎ出される言葉も凄く丁寧で本心で、その人独特の言い回しで、聞いていてすごく気持ちが良かった。
私は参加者ではなく、ヘルプとして手伝っていたから発表はしなかったんだけど、ふと思った。
今の自分にそこまでの感性があるだろうか?
実は、本音を言うと、あんまり発表出来る気がしなかった。
それが自分にとってすごくショックだった。
そしてその後にTwitterで昔の「曖昧さの魅力」のnoteにいいねがついたから読んだら、さらにショックを受けた笑
最近の私は、紡ぐ言葉が無機質なものに変化してしまっている。
他人にとって良いものが、自分にとって良いものと自然にすり替わってしまってないだろうか?
理解されないことへの恐怖から、紡ぐ言葉を自分の感覚と違うけど仕方なく諦めて、分かりやすく表現できる言葉に組み替えてしまってないだろうか?
そうですよね。3年前のれいな先輩。
凄く反省します。
まだぎこちないけど、自分の言葉を取り戻そうと思ってこのnoteを書いた。
こうやって少しづつでも自分の言葉を紡いでいきたいと思う。
そしてもっと、自分が好きな歌を歌おう。自分が好きな曲をピアノで弾こう。絵を描こう。文章を書こう。
本当は自分が作る芸術と自分が感じる感性が大好きなんだ。
少し前だけど、神楽坂で見つけた枝で作られた鹿が凄く好きだなと感じた。
今日も投資家との打ち合わせがあるんだけどさ、自分らしく語ろうと思う。