「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ」に感じる違和感
「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ、オリンパス」
このフレーズ、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
オリンパスが2007年から企業広告に使用しているキーフレーズです。
セラピストのみなさん、違和感を感じませんか?
今回はこのフレーズに違和感を感じないセラピストは、『人間』の捉え方を考え直した方が良いというお話です。
注:オリンパスさんが嫌いとかでは決してありません。愛用しているICレコーダーはオリンパスさんですし、カメラを買うときもOM-Dは最終候補まで残りました。念のため。
ココロとカラダを分けるのは350年以上昔の考え方
『心身二元論』という言葉を聞いたことはあるでしょうか。
一般的に、あまり聞き馴染みはないかもしれません。
では、次の言葉はどうでしょう。
「われ思う、ゆえにわれ在り」
一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
ルネ・デカルト(1596-1650)という数学者の言葉で、あまりにも有名な言葉です。
デカルトは『省察(せいさつ)』という書物で、人間の精神と身体、そして神について、疑えるものを徹底的に疑うという『懐疑論』を展開しました。
デカルトの展開した考え方については、次の引用がわかりやすいと思います。
デカルトはまず、「絶対確実なものを求める方法論を考え、「疑うものはすべて疑う」という視点に立った。
偏見の目で見たり、速断したりすることなく、疑いのまったく入り込む余地のないほど明らかに真であると確信すること以外は認めない。
(白鳥春彦監修:「哲学」は図で考えると面白い, P102-106)
このような考え方を展開したデカルトは、「自分がそこに物体があると考えるから、そこに物体があることが明確になるのだ」と考え、最終的に自身の思考こそが絶対的なものであると結論します。
そして、身体と精神を明確に分けた上で、精神の優位性を主張したのです。
これが『心身二元論』の始まりであり、それを端的に説明したのが「われ思う、ゆえにわれ在り」という言葉です。
ちなみに、『心身二元論』として明確に打ち出したのは、デカルトが『省察』の後に著した『情念論』とされます。
この『心身二元論』という考え方は350年以上昔に生きた人が考えたことですが、現代でもこの影響は色濃く残っています。
その証拠が冒頭で挙げた、「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ」というフレーズに集約されているように思います。
にんげんの捉え方に根強く残る『二元論』
では、にんげんのココロとカラダというのは、別々に分けられるものなのでしょうか。
我々セラピストは、日々クライアント(患者さん、利用者さん)と関わります。
直感的に、ココロとカラダは密接に関わっているということは分かっているのではないでしょうか。
では、理学療法やその他の療法を適用する上で、ココロとカラダをどのように捉えていますか?
ここにも『心身二元論』は根強く残っているように思うのです。
私は理学療法士なので理学療法として論じますが、理学療法の定義においては「運動、温熱、電気、水、光線などの物理的手段を用いて行われる治療法」とされます。
この定義を見ても明らかなように、ココロは考慮されていないと感じます。
日本で理学療法の定義が作られたのは50年くらい前ですが、その時点においても300年以上前の思想は克服されていなかったということです。
そしてそれは現在も続いています。
『心身二元論』を克服するために
デカルトから始まった『心身二元論』に対しては、ベルクソンとメルロ=ポンティが克服する方法を提示しています。
長くなるので詳しい説明は別の機会にしたいと思いますが、二人の主張は次のようなものです。
ベルクソンは、物質を、精神のうちにのみ表象される観念論と、精神の表象とは独立して存在するという実在論との「中間のもの」と位置づけるという方法をとりました。これにより、「身体」も精神的な側面と物質的な側面の両面性を持つ、と考えることができます。
メルロ=ポンティは、身体を、主体(心)としての意識存在性と客体(物)としての物質存在性という両義性を有したものとして捉えます。
結局のところ、にんげんは精神的な側面と物質的な側面の両面を有した1つの存在であるということですね。
この考え方に基づくと「ココロとカラダ」と分けること自体に違和感を持った、というのが冒頭の違和感の正体です。
二元論により生じる問題と解決
ここまで、にんげんはココロとカラダを別々に分けられる存在ではなく、その両義性を持った存在であるという話を展開してきました。
臨床上、ココロとカラダが密接に関わっているというのは実感することが多いのではないでしょうか。
●身体の不調(ケガや病気)により、気分が落ち込んだり、鬱傾向になってしまう。
●気分の落ち込んでいる日と気分の上がっている日では、明らかに身体能力が異なる。
これはクライアントに生じることもありますし、自分自身にとっても言えることではないでしょうか。
私たちは、セラピストもそうでない方も、直感的にはココロとカラダが不可分なものであることは知っています。
それなのに、『二元論』が分化に浸透しすぎているため、分けて考えようとしてしまうのではないでしょうか。
にんげんをココロとカラダに分けて考える『二元論』は、問題を分けて考えられるので、理解しやすいという側面があります。
身体の問題であれば身体に、精神の問題であれば精神に、それぞれ治療を施せば良い。
とても分かりやすいのですが、にんげんというのはそんなに単純なものではありません。
このように分けてしまった結果、身体と精神の密接な関わりの中で生じている問題に目を向けられず、本質的な解決ができなくなっている、最悪の場合は悪化してしまう、という問題が生じているのではないでしょうか。
医者の場合は診療科が明確に分けられています。
身体の問題は整形外科、脳なら脳神経外科・内科、精神なら精神科というように。
しかし、我々のようなリハビリテーションは、これらの領域を横断的に考えることができるのではないでしょうか。
セラピストは、ココロとカラダを分けないにんげんの捉え方、複雑なものを単純化しすぎないという視点で、クライアントの問題に向き合うべきだと考えます。
まとめ
「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ」というフレーズに感じる違和感から、『心身二元論』について考えてきました。
精神と身体を明確に分けて考えることは、複雑な問題を単純化して考えるということです。
考えやすいというメリットがある一方、問題の本質を捉えることができなくなるというデメリットが生じます。
我々セラピストは、精神と身体を分けることなく、ヒトとして、にんげんとして、総合的に捉える必要があるのではないでしょうか。
複雑なものを複雑なまま考える。
非常に難しいことだとは思いますが、これにより解決が可能になる問題は非常に多いと感じています。
もっと学びたい方へ
デカルトの著書『省察』です。
前半はデカルトの著した内容の訳、後半は解説になっています。
引用した書籍です。幅広い哲学者の思想を取り上げており、入門書としてオススメです。
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