【読書感想文的エッセイ】あの地平線輝くのは10
最後に『星の王子さま』といえばこれだろうという話をして終わろうと思う。砂漠の話だ。王子さまが地球に降り立った場所は砂漠だった。そこで蛇と出会い、帰りたくなったらぼくに声を掛けるんだよとRPGのようなセリフを言われる。そして地球のいろんなところを周り、キツネやパイロットの「ぼく」に出会うのだ。物語の終盤、パイロットが喉が渇いたと言うので、井戸を探すシーンがある。ぼくはこのシーンが結構好きだ。あると思えば、景色が変わるのだ。
高校生の頃、演劇部に入部した。最初は音響スタッフとして入った。そのうちに役者がやりたくなって、本番中に立っている位置がお客さんの後ろから前に変わった。舞台の上は照明が熱く、汗かきのぼくにはなかなか大変な時期もあったが、とても楽しかった。だけど、舞台の上での記憶はほとんどない。ハイなときの記憶は曖昧なのだ。いろんな舞台を観ているうちに、自分でも話を作ってみたくなった。部活を引退した後も書いた。卒業後も書き続けた。今も書き続けている。「電脳天使」というグループを発足させたのは、昨年の2月だ。それまでぼくはずっとひとりでやってきた。 ぼくは戯曲を上演する前提で書いたことはあまりない。演劇部時代の数回と『誰かいる宇宙』と『光の速さで生きて』だ。「宇宙」と「光速」は、コロナで上演が流れた。演劇部時代はいまの名義で発表していないので、「有馬風音」の名前では一作品も発表していないに等しい、のだと思う。部活を引退して以降、ぼくの書いた作品は全て台本ではなく、ただの読み物だった。「劇作家」を名乗っているが、劇は制作したことがない。なぜなら演劇はひとりではできないからだ。
気付いたら、電車に揺られていた。最初に窓から見えたのは深い霧だった。霧を抜けると、そこは海岸線だった。反対側には砂漠が広がっていた。砂漠にはほとんど人影はなく、たまに地平線からキャラバンがちらほらと見えるくらいだった。彼ら隊列までものすごい距離があったが、楽しげなのはすぐに見て取れた。よくよく見てみると、そのキャラバンは古くからの友人たちであった。ぼくは電車を降りて、そのキャラバンに合流した。友人たちはみんな変わってないと思っていたが、案外そうでもなかった。みんな少しずつ、大人になっていた。ぼくは子供のままだった。多分、ぼくの乗っていた電車が光の速さで走っていたからだろう。しかし、そんな些細なことは段々気にならなくなった。そんなとき、砂嵐がきた。ぼくたちはバラバラになってしまった。みんながさまよえる演劇人になった。だけど、その距離は乗り越えられるものだとぼくは信じている。広い広い砂漠の中で、地平線がこんなにもはっきり見えるのに、あんまり心錆しくならならいのは、誰かがいることを信じられているからだと思う。井戸を見つけると、同じ水を飲んだかもしれないと思うし、夜になれば、同じ星を見ているかもしれないと思える。
ぼくは明かりを灯すのだ。誰かいる宇宙へ。ほら、こんばんは。ひとりで旅をしている。旅行ではない。ぼくはツーリストではなく、トラベラーでいたいのだ。ほら、おはよう。なんでって、未来は誰にも分からないから。いや、神のみぞ知るものだから。そんな神様すらどこに居られるのか分からないけれど、とりあえず信じてみたいと思う。ほら、こんばんは。そう思わないとやってられない時もある。だから、この宇宙のどこかに居ると信じる。ほら、おはよう。またじきに夜の帳が下りる。ほら、こんばんは。夜辺ない時代に生きる誰かに、このランタンの光が届いているといいな。ほら、おはよう。ほら、こんばんは。ほら、おはよう。ほら、こんばんは。ほら、おはよう。ほら、こんばんは。ほら、おはよう。ほら、こんばんは。……。
また夜が来た。こうやって、誰かいるかもしれない宇宙の中を旅しつづけるのだろう。
『あの地平線輝くのは』終 2022年6月19日
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