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悪い癖:どうしてずっと忙しいのか

すぐ増えるTo doリストについて

 また悪い癖が出てきている。「やりたいこと」が多すぎて、自分の体がそれに追いついていないのだ。To doリストが気付いたらパンパンになっている。わたしは後回しにするタイプではない。自分で言うのも少し恥ずかしいような気がするが、「やらなければいけないこと」はすぐにやるJust do itタイプだ。なのにどうして、リストが増えていく。

考えられる原因とその対策について

 原因はある程度分かっている。多分ふたつある。ひとつめ。「やりたいこと」が多いが、その中には「やらなければならないこと」も含まれていて、そもそもその「やらなければいけないこと」自体が多い。忙しい自慢ほど見苦しいものはないが、実際のところ、ちょっと忙しいように思う。さっき、「体が追いついていない」と書いたが、おそらくこれは、時間がいくらあっても足りないというよりは、気持ちの面で余裕がなくなっていることの表れだと感じる。
 ふたつめ。わたしは結構メモ魔なのだ。正真正銘のメモ魔の人と比べれば、足元にも及ばないだろうが、一般的に見ればメモ魔な方だと自分では見ている。いま、こうやってエッセイを書いているが、日常的に作品やエッセイのテーマや内容を考えている。いや、考えているというよりは頭の底にあったものが、何かをきっかけにして浮かんでくるといった表現がいいかもしれない。それはいつ起こるか分からない。電車に乗って学校へ向かっているときかもしれないし、散歩中かもしれないし、授業中に浮かんでくることだってあるかもしれない。そのうえ、わたしはもの忘れが多い。
 例えば、何か予定ができたとき、決まったそのときにカレンダーアプリに入力しないと、そもそも予定があったことすら忘れていることが多い。わたしが通っていた高校ではスマホが禁止であった。だからクラスメイトは各々で手帳を持ってきて、そこにいろいろと書いていた。もちろんわたしも手帳を用意して、いろいろ書いていたが、当時はメモをつける習慣などなかったので、そもそも書いたことすら忘れていたことも多かった。だから高校時代は本当に心からスマホの使用を許可してほしかった。メモアプリをホーム画面に表示する設定にしておけば、スマホを開くたびに、「やらなければいけないこと」が目に入ってくる。そうすれば、ものを忘れたりすることはない。それが分かっているのに、出来ない環境がとてもストレスだった。

 話は少し横道に逸れるが、スマホを禁止する意味がいまいちよく分からない。あとメイク。スマホを禁止して、どんなメリットがあると言うのか。授業中にLINEをするからだろうか。ゲームをするからだろうか。もし授業中にLINEやゲームをすることがいけないことであるとしたら、それはその都度、教師が注意するべきことではないのだろうか。スマホゲームの方が面白い授業しかできない教師もそれはそれで問題があるような気がするが、今回はそこには深く立ち入らないことにする。

 話を戻そう。とにかく、ほんの一部ではあったと思うが、そのようなしょうもないことにしかスマホを使えない人たちのせいで、かなりのストレスを被っていた。どうやって対策したか。せっかくだから、いくつか紹介しようと思う。その1、いろんな所に何回も書く。手帳だけに書くから忘れる。少しでも見る可能性の高いもの、例えば、教科ノートにも課題をメモする。頭に定着させようと努力する。その2、メモしたうえで、付箋を貼る。これはメモしたこと自体、もしくは「それ」自体を忘れることを予防する。手帳や教科ノート、ワークに付箋を貼り、そこを開くとメモが残っている。その3、忘れないように頑張る。授業中であっても常に机の上に手帳を開いた状態で置いておき、いつでも目に入るようにしておく。忘れないこと自体を忘れないようにした、物忘れ対策の究極の形であるようにも見える。

「忙しさ」と忘れること

 いま、使っているメモアプリは、3つ目の方法の延長戦上にあるように思える。わたしは高校を卒業して、手帳からすぐにアプリに乗り換えた。アプリは良い。何が一番良いのかと言うと、リマインド機能がある。この機能を始めて実装した人は本当に天才だと思う。わたしは心から感謝を述べたい。いったい何人の開発者が「そうだ、リマインド機能をつけよう。事前に言ってほしいタイミングを設定しておくことで、予定やメモしたことをちゃんと連絡してくれる機能だ」と思いつき、そのアイデアをメモしないばっかりに、その天才的な発想を記憶の底に埋めてきたことだろう。よく「思いつく人1万人、動く人100人、続ける人1人」と言うが、このあぶれていった人たちの半分は「明日やろう」、そしてもう半分は何かを忘れた人たちではなかったか。
 ラーメンズのコント「アトムより」(『ATOM』)で片桐仁演じる「ノス」が小林賢太郎演じる「富樫」に次のようなこと言う。

片桐「富樫君。イソガシイという字は、心をはさむと書くのす」
小林「違うぜ」

小林賢太郎『小林賢太郎戯曲集 CHERRY BLOSSOM FRONT 345 ATOM CLASSIC』幻冬文庫、2015年

これは間違っている。「ノス」は漢字をよく間違えるのだ。「イソガシイ」という字は「心を亡くす」と書く。そう、まさしく冒頭に書いたように、「やりたいこと」が多すぎて、自分の体がそれに追いついていないのだ。では、先ほどから話題の「ワスレル」はどうだろう。………。これも「心を亡くす」と書く。では「忙しい」心と「忘れる」心は何を指しているのか。もし仮に同じものを指しているとすれば、それは「我」ではないだろうか。

 デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」という近代哲学の基盤となるテーゼを打ち出したが、この「我」とは誰だろう。現代人の素朴な感覚の中で、どれほどの人がこのデカルトの「我」を受け入れられるだろうか。本当に、「たったいま、思考している自分は本当のものだから云々」と感じることができる現代人はどれほどいるのだろうか。少し大きく出すぎてしまったように思えるので、卑近な表現に言い換えると、現代人は「われ思う、ゆえにわれあり」ではなく、「われでありたい、ゆえにわれ思う」になっているのではないだろうか。つまり「自分というものを保っていたい。だからは自分は思考するのだ」と。この「思考」とは、なにも高尚なことばかりではない。常に何かの情報に触れ、その情報が圧縮されると、圧縮された分、余裕ができた時間で、また別の情報に触れる。これこそ「忘れないこと自体を忘れない」ことではないだろうか。
 しかしわたしたちは「忘れないこと自体を忘れない」ようにしつつも、たったひとつだけ、忘れたいものを持っている。それは、わたしたちから心を亡くさせる「忙しさ」である。わたしたちは好きな音楽や映画に触れて、ストレスを発散する。しかし、これはストレスを発散すること自体が目的となっているわけではない。忙しいことを忘れたくて、音楽や映画にいわば駆け込むのである。しかしここで、これは「忙しさ」から逃走を図るために、「思考」を重ねているだけだという事実に気付かねばならない。わたしたちはストレス発散をしているように見えて、その実「忙しさ」に「忙しさ」を重ねているだけなのだ。
 「われでありたい、ゆえにわれ思う」は、わたしたちの心を亡くさせる「忙しさ」に対する一種の防衛機能だ。しかし、実態はその「思考」自体がわたしたちの忘れたい「忙しさ」の根源であるために、わたしたちは「忙しさ」から逃れることが叶っておらず、一時的な誤魔化しにしかなりえていない。

忘れることを忘れた人たちへ

 なぜ気が付くと自分は忙しくなるのか、という問いの答えが出たように思う。それは「われでありたい、ゆえにわれ思う」の行きつく先が、「忙しさ」であり、その実態は「忘れないこと自体を忘れない」ようにするという現代人の特徴にあった。すなわち、このわたしこそが現代のあまりにも汎用な人間の代表者であったのだ。
 では、どうすれば、忙しくなくなるのか、ここまで読んだ方はある程度の察しがつくと思う。それはすべてを忘れ、「忙しさ」から解放されることだ。つまり、何も「思考」しないことだ。暇な時間をつくることだ。わたしたちは暇な時間をフリースペースと捉える。だから、わたしたちは「時間があったら、なにがしかをしよう」と考えるわけである。しかし、これは「忙しさ」の上塗りでしかないのは、もうお分かりだろう。暇な時間は決して余ったフリースペースではない。あえて、意識的に確保せねばならない無意識の思考場所なのだ。1行開けて、復習しやすいようにノートをとるように、暇な時間を確保するのだ。これを時間の無駄だと感じた人は、わたしと同じ汎用な現代人の仲間入りだ。しかし意識的に忘れることを実行すること、「思考」を放棄することで、「忙しさ」から「我」を解放させる。つまり、「忙しさ」はTo doリストの量だけで決まるわけではない。むしろ、自分の心の持ちようのほうが重要なのだ。心の持ちようと言えば、先ほど、現代人は「われでありたい」状態になっていると書いたが、なぜこのような事態になっているのかについては、別の機会に詳しく触れたいと思う。少なくとも、心を亡くす「忙しさ」によって現代人の「我」が形づくられているのは、矛盾しているように見えるが、ほとんど確からしいように思われる。

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