【読書感想文的エッセイ】あの地平線輝くのは8
次の星には地理学者がいた。彼は大きな本を広げて読んでいた。彼は他の星については詳しいが、自分の星についてはほとんど何も知らない。自分は探検家ではなく、地理学者だから、歩き回っている時間はないと言う。そして、王子さまを探検家だと思い込み、王子さまがいた星のことを記録しようとする。
地理学者はたくさん本を読んで、他の星についてはよく知っているが、それは探検家がいて初めて成り立つ知識と言える。彼の元には探検家がいないので、彼は自分の星についてはほとんど何も知らない。これは「灯台下暗し」ということを表しているのかもしれないし、実の伴わない知識はこんなにも奇妙な事態であることを表現しているのかもしれない。『星の王子さま』が書かれた当時はどうだったが知らないが、現代においてはフィールドワークをしない地理学者の方が珍しいのではないだろうか。いずれにしても「知識」について考えるにあたって、地理学者を引き合いに出したのは、さすがと言うしかない。
このような文章を読んでいると、さも今からわたしが実の伴わない知識についての批判を行うように見えるだろう。しかし、わたしはみなさんが思っている以上に牛歩なのだ。そもそも実の伴わない知識とは何なのか、という話から考えようと思う。
まずは「実の伴わない」状態を考えよう。これは反対語を思い浮かべれば、すぐに解決できると思われる。「実」の反対語は「虚ろ」である。「虚ろ」とは、すなわち「中身がないこと」、「空洞のこと」、「空っぽのこと」だ。つまり実の伴わない知識とは、空っぽの知識ということになる。わたしが思う空っぽの知識とは、経験に結びついていない知識のことだ。では経験に結びついた知識とはどんなものだろうか。これはなかなかに難しい問題である。「経験」とは個人の感覚や知覚に基づいた体験のことを指すが、つまるところ「経験」とはこういった体験が個人の身体に何らかの刻印を残すことに他ならない。「経験」とは「験(しるし)」を「経(へ)る」と書くのだ。匂いで何らかの記憶がふわりと浮き上がってくるという体験をしたことがある人は決して少なくないだろう。あの体験こそ、いつかの経験がまさしく身体に刻み付けられていたことを示してくれている。
しかし、そのような経験がともなった知識とはどれほどあるだろうか。わたしが今やっているような文学テクストの読みは、読書体験に基づいて書かれているものであるが、では「文学」自体が実の伴ったものかと問われると、答えるのに少し窮してしまう。文学はやはり、どこまでいっても「虚ろ」つまりフィクションについて考えるものだろう。ではフィクションと反対に位置するもの、歴史はどうだろうか。わたしたちはみな、歴史から逃れて生きることなど決してできないが、それが経験と結びついたものとは言えないだろう。歴史とは後になって作られる。したがって歴史とは常に過去のものだ。当事者にならない限り、歴史を経験することは難しいだろう。だからこそ当事者の話を聞いて、少しでも自分の経験にすることが「平和学習」などにおいては求められていることなのだが、その当事者も徐々に少なくなっているというのが実情で、先の大戦の経験は完全に過ぎ去ろうとしている。科学はどうだろうか。科学はまさしく観察と実験によって発展してきたし、これからもその方法で発展はしていくだろう。しかし理論物理学の世界になると、論理上はあり得るという話も少なくないし、高校レベルの理科はすべての内容を実験によってものにすることはカリキュラムの制約上ほぼ不可能に近い。しかし高校レベルの科学は日常生活にあふれているので、いかにして自分で日常生活で起こる現象を科学に落とし込めるか(=科学的経験)を形成できるのかが、分かれ道なのかもしれない。やはり公式を覚えるだけというのは、実の伴わない知識になり下がってしまうだろう。
ぼくは大学で文学を学んでいる。学部上の専攻はドイツ文学なのだが、専門は? と聞かれると文学批評理論と答えるようにしている。まあ、それはいいとして、恥ずかしながらわたしは留学に行ったことがない。ヨーロッパでの感染拡大がひどかったから、などといくらでもそれらしい理由を探すことはできる。しかし、わたしの周りではそれでもヨーロッパへ行った人が何人かいる。彼らがどのような思いで海外へ行ったのかすべて知っているわけではないが、とても素晴らしいことだと思う。一方のぼくと言えば、ドイツ文学を専攻しているのに、一度もドイツへ行ったことがない。恥ずかしい、というかもはやコンプレックスになりつつある。現在ぼくは大学四年生だが、大学生活を振り返るとまさしく「地理学者」のようであった。覚えているのは図書館の記憶ばかりである。コロナで留学に行けないと悟った瞬間から、ぼくは象牙の塔に引きこもった。そこで得たものも大きいが、だからこそ次はフィールドワークに出掛けたいという気持ちが非常に強い。ぼくにとってフィールドワークとは、現実世界との関係を修復するひとつの経路なのだ。だから民俗学や文化人類学といった分野にも関心があるし、今後はそういった学びを踏まえた研究をしたいと願っている。
少し長くなってしまった。ぼくは「知識」に対して異常なほど貪欲なのだ。すかして見せているのは、多分ブレーキのつもりなんだろう。本当は全部知りたいのだ。今は大学で学ぶことができないことにも興味がある。何故あの二人は仲が良くないのか、何故あの人に惚れたのか、何故なにかに依存、執着するのか、何故こうも生きにくいのか、何故すべてを知りたいのか。大学で学んだことで、こういったことの解釈はできる。しかし本当のことは分からない。そこにはその人の経験に基づいた何かがある。話せば分かるとか話し合いで分かり合えるなどと素朴に信じられる時代は終わったーあるいは最初からなかったかもしれないーが、だからこそ人を疑わず、畏れず、そして知りたいと思ってしまうのだ。それがわたしの ー人のことが理解できないぼくのー 唯一救われる道だと思うから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?