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推しが燃えた私が『推し、燃ゆ』を語る。


忘れもしない。
2021年の夏、私の推しは燃えた。

「燃えた」というのは、もちろん物理的な話ではなく。いわゆる「炎上」というやつである。

当時の心境についてはあまりにも赤裸々というか、お気持ち表明にもほどがありすぎて今見ると恥ずかしいので有料記事にしているのだけど。

ざっくり当時燃えた推しのことを説明すると、不倫をして、活動休止して、数々の作品を降板して、組んでいたバンドも解散した。これがものの数ヶ月で起こった。
当時仕事も嫌になっていた私は、それはもう荒れに荒れた。


この炎上の1年ほど前に『推し、燃ゆ』は出版され、第164回芥川賞を受賞したことでもかなり話題になった。

普段小説を読まないという人もこの作品は印象に残っているのではないだろうか。何といってもこのキャッチーなタイトル。一度目にしたら忘れないだろう。特にオタクは。
私も一介のオタク故、目にした瞬間「読まねば」と思った。そして読んだ。




推しが燃えた。ファンを殴ったらしい

『推し、燃ゆ』冒頭


主人公・あかりは、アイドルグループ「まざま座」の上野真幸を推している。その推しが燃えるシーンから始まる今作。最初から生きた心地がしない。

私がこの作品を初めて読んだのは2021年の5月。この時はまだ推しの炎上というものを経験していなかった。
故に、あぁ、燃えたら大変だなぁ、他人事じゃないなぁと思っていた。ちなみにその時の私の読了ツイートがコレだ。

今は全然動かしてない読書アカウントのスクショ

しかし、「他人事じゃないなぁ」くらいに思っている時点で、他人事と思っていたのだ、と今になって思う。


まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。

冒頭に続くこの文章には、昨今の炎上がよく表れている。まったく、その通りすぎて嫌になる。

SNSというのはしばしば言葉足らずになりがちだ。何の気なしに投稿した一言が、それが嘘か真かなんて関係なく一足跳びに、加速度的に拡がっていく。
一度拡がり始めたらもうそれは止められない。
話にはどんどん尾ひれがついていくし、叩く(その行動を非難する)人と擁護派、そして擁護派に対するアンチとでそこかしこで争いが勃発。まるで収拾がつかない。

人間、「正義」を盾にすれば何だって出来てしまうのだと、推しが燃えて改めて思い知った。


さて、推しが燃えた翌日。作中では、あかりはいつも通り学校へ行く。あかりの友人・成美は、「無事?」と声をかける。
「大丈夫?」ではなく「無事?」というあたりに、何とも言えないリアルさがある。

ちなみに私は、推しが燃えた翌日何食わぬ顔で仕事をし、友人からは「生きてる?」とLINEが届いた。正直生きてはいなかった。上手く呼吸できていなかったんじゃないかと思う。

作中の成美が言った「推しは命にかかわるからね」という言葉の重さたるや。


そして物語は、あかりが推しのことを回想しながら進んでいく。
あかりは、推しを「解釈する」ことで推しの見ている世界を見ようとする。そういうスタンスだ。

回想の中で、今まで解釈してきた推しを再確認し、炎上の発端となった推しの行動に疑問を抱いたり、やっぱり推しはかけがえのない存在だと噛み締める。自分と重なって涙が出そうだ。
炎上してなお、思い出す推しはいつだって「推せる」推しなのだ。


しかし、推しが燃えても日常は続く。

あかりは、"普通"の女子高生より少し生きづらさを抱えて生きている。勧められて行った病院では「ふたつほど診断名もついた」そうだ。
それでも、推しを推している間は身体が軽い。呼吸ができる。文字通り、あかりは推しのおかげで「生きて」いるのだ。


反対に、推しがいなければ、あかりにはままならない日常しか残らない。

バイトも上手くいかない。高校も留年確定。
そんな中で推しの口から突然発されたのは、グループの解散。
記者会見では、推しが芸能界を引退することも伝えられた。
そしてその時、推しの左手薬指には、指輪…………

このあたりの流れが激流で、心臓がバクバクする。
記者会見動画に対するさまざまなコメントが改行無しで羅列されているあたり、コメント欄の「流れ」というか、スピードを感じられる。

流れるコメントを眺めながら、あかりは自分も何か言わなきゃと思うのに言葉が見つからない。それは「病気」を抱えているからとか関係なしに、あまりにも突然で、解釈が追い付いていないことに起因していると思う。
あかりの言う「解釈」とは、推しのことを丁寧に丁寧に掘り下げていくことだから、反射的に感想とか、意見とかは出来ないんじゃないかと。

私も、発言の前に長考してしまうところがあるので、あかりほどじゃないが、スッと言葉が出てこない気持ちは分かる気がした。


物語も終盤、ついに推しのラストコンサートを迎える。
精一杯声を振り絞って推しの名を叫び、推しカラーのペンライトを振る。最後だということを嫌と言うほど意識しながら、この瞬間が永遠に続いてほしいと願わずにはいられないあかり―――――

このコンサートの場面の描写は、それほど多くのページが割かれているわけではない。
だが、その数ページは他の部分よりも勢いがあり、そこに描かれるあかりは、あまりにも切実で、力強くて、壊れそうで、熱くて、空っぽで、生きていて………この矛盾だらけな少女のことが、愛おしくて、愛おしくて、たまらなく抱きしめたくなるのだ。


そしてあかりは、推しのラストコンサートの感想をブログに綴る。
「最後なんだって思いました」を消して、「最後だと信じられなくて」と書いてまた消して…というシーンが何とも印象的だ。

最後を噛み締めつつ、でも最後と思いたくなくて、でも推しの最後の姿は出来るだけ記録しておきたい、でも書いてしまえば本当に最後になってしまう、終わらせたくない、という葛藤………はぁ、なんて切ないのか。


全体を通して、「推し」もそうだし、「チェキ」とか「ガチ勢」とか、オタクになじみ深い単語が随所に出てくるので、根っからの文芸沼(「沼」もオタク用語か…?)の人よりもむしろ、なにかしらのオタクの方が親近感があって読みやすいかもしれない。


最後までどことなく仄暗くて、救いようのない話だが、その絶望感が何とも魅力的な作品だった。

推し如きで絶望?と疑問を抱く人も中にはいるかもしれないが、この作品を読んだ後には、そんなことは言えなくなっているはずだ。なんたって「推しは命にかかわる」のだから。

炎上から解散まで、私も一通り『推し、燃ゆ』を実際に経験してしまった。
「他人事」の頃に既に読んでいたが、「自分事」として再読すると切実さの度合いが段違いだ。ある意味、二度美味しい作品となった。

これから読む、という人には是非「他人事」のうちに読んでいただきたい。そして、「自分事」となる日が来ないことを祈っている。


世の中に、「絶対」とか「永遠」なんてものはない。
だから、「推し」は推せるときに精一杯推しておくこと。

よく言われることであるが、より一層私の心には深く深く刻まれた。


推しに関しては、本当に当時色々なことがあって、報道がある度に息が詰まって、手が震えて、生きた心地がしなかった。
でも、こんな気持ちになるのはやっぱり推ししかいないし、私にとっては唯一無二の存在だ。

ここまで心揺さぶられることはもう二度と無いだろう。
……というより、もう二度と味わいたくない。そのくらい、ひどく疲れた。


あれから随分経ったけれど、未だに私は推しとの向き合い方が定まっていない。けど、推しを推していたあの幸せだった時間までは否定したくない。
だってその瞬間、私は「生きて」いたから。私を生かしてくれたのは推しだから。

これからもきっと、ずっと、このぐちゃぐちゃな感情と付き合っていくのだろう。
そう思いながら、私はまた「生きる」ための「推し」を探すのだ。



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こじらせアラサーOLリィ
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