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今日の書きちらし寿司 5.3 山に帰ったこととデジタルデトックス

愛媛県久万高原柳井

 この土地には定期的にくる。相当な山間部だが、四国にはもう熊はほとんどいないも同然なので危険生物といえば蛇かスズメバチくらいしかいないので心置きなく山に登ることが出来る(熊がいたとしてもツキノワであるし)。ただし、石鎚山まで登ると滑落の危険性がぐっと高まるのでその辺りは気を付けて欲しい。実際若い人が遭難して助けに行った警官が滑落死した事件があったので石鎚山系に登る時は気を付けて欲しい。もちろん車でも登れないので。

 それはとにかく、私が上ったのは久万高原町柳井、かつては別の名前で呼ばれていた名前の土地である。かなり昔から人が棲んでいたので、名前が転々としていたのではなかろうか。今は久万高原町自体が少子高齢化で若年層が少なく活気の面では苦しいところがあるが、今回行ってみるとこいのぼりが仁淀川の流れをくむ川の上を泳いでいた。びゅうびゅう音がするほどの突風でぶち壊れた鯉もいくつかあったが。


背景の家々もほとんど人が棲んでいない。バス停がかろうじて稼働しているだけである。

 この土地はもちろん小中学校もない。廃校である。未だ人が来ているようなので写真は控える。小売店はコンビニや道の駅などなく個人商店が一件確認できるだけである。どのようにこの土地の人々は生活しているのか。恐らく生協が来るか、自給自足するか、週末にまとめ買いするかだろうが。この土地からもバスが一本ずつ下の久万高原町中心部に向けて走っていて、それに乗って買い物しているのかもしれない。



エセ仁淀ブルーと廃墟

 仁淀川の下にあるから厳密には仁淀ブルーではない。しかしいつ見ても綺麗な青緑色をしている。台風の日はそれなりに荒れるらしい。私が行った日も数日前の大荒れの日の残滓として橋の高い欄干に木の枝が引っかかっていた。

山と強制デジタルデトックス

5月の繁茂する葉っぱ隊。地元の誰かが手を入れている?

 少し山を車で上がると、すぐに「ポツ〇と一軒家」状態の山道に入る。そうするともうデジタルデトックス状態で電波も入らなくなる。陳腐な言い方だが、何度も色んな人に言われてきた
「苦しいもの、嫌なものは見なければいいんだよ」
 というものを体現できる場所があった。そして周りは新緑だらけ。残念なのは轟々と音を立てるほどの突風だが、もう何もかも忘れて今そこにいる自分、「生きている自分」「ここにいる自分」に集中するマインドフルネス的効果がある……様な気がする。スズメバチでも来ない限り。


家の痕跡

 土台があるということは家の痕跡だろうか。載せないが、近くに寺社の痕跡もあったので多分家がいくつかあったのだろう……というとまた「因習」「横溝正×シリーズ」とか言われそうだが、きっと全然そんなことはない。
 現に更に上の方には住んでいる人がいるし、この土地を守りたい「故郷として愛している人々」が「村報」を数年前に新聞社から出していたし、現に路線を保持しようとしている人達がいるということは、息づいているのだ。この山と人は。村は。呪いも因習も無く、陽光の中で人が人のままでいられる明るい山なのだ(夜は知らない。動物が跋扈するだろうから)。

Google曰く梅


突然のマイナスイオン

 山を移動していたら突然滝が現れたりする。その場所だけひやりとして落ち着いて、眠くなったりする。不思議な花や植物があって、写真だけ撮影して後でGoogle検索したりする。そんな楽しみ方をする。何故かこの道は自転車の群れもバイクの群れも来なかった。道の駅にはあんなにいたのに。
 山の名前も特に決まっていない不思議な山だったが、自分が統一されて、もう自分に戻りなさい、「嫌なものは見なくていいのよ」と母のようなものに言われるようなそんな場所だった。都合のいい解釈かも知れないが、気持ちがほどけて救われるような気がした。もう残っていない家の土台だけが悲しかった。ここに家があったら、私はここに住んだだろう。そしたらきっと、幸せで安寧だっただろう。恐らく。因習なんてないこの場所で。

道の駅

 帰り道は道の駅みかわに寄った。何故道の駅久万高原ではないのか?みかわの方が単に近いからである。しかし久万高原グッズも充実しているし、食堂も唐揚げがおいしい。ソフトクリームもいちおしである。

 惜しむらくは、このような連休だと長距離バイカーやロードバイカーがたむろすることが多く、特に大型バイクによる駐車場の混雑が酷いという点である。それはどこの道の駅もそうかもしれないが。
 久万高原町では未だにイノシシ猟が活発で、イノシシカレーなどが売られている。自分は買っていない。そして今回は寄らなかったが、近くに古代の遺跡があるらしく、それの見学もできるらしい。

旅の終わりと「アガリビト」

 私はこの旅行で「アガリビト」という怪談を思い出していた。人が山に取り込まれ、人でなくなった姿。獣に成った人の姿。今回登った山は人の手が入った山だったが、それでも「山の中に消えたい」「山に帰りたい」「山の中に入って有耶無耶にしたい」と思えるほどの「山の包容力」があった。参道のわき道にすべての荷物を置いて転がり落ちて行ったら、どこまで行けるだろうとふと考えたり。
 そんな人が、山に呑まれて「アガリビト」になってしまうんじゃないだろうか。「もういい」と思った人が「アガリビト」になったんじゃないだろうか。スマホもなにもかも捨てて、山に帰ってしまったんじゃないだろうか。でも私はまだ理性が残念なことに脳が壊れていても残っているので(相当ワヤな理性だが)、山から出てくることはできた。山から下りて私は街に戻ってきた。人を疑い、人と揉めて、人と争うことを重ねて「わるもの」になった。でも、いつでもあの山に帰ることが出来ると思うと、ふっ、と足元が軽くなる気がするのだ。

 これがどれほど続くかはわからないが。

#わたしの旅行記

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