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アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン 作家の伝記

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ユーリ・ミハイロヴィチ・ロトマンによるプーシキンの伝記を少しずつ訳したものをまとめました。序章から第9章まであります。
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記事一覧

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉖

 これらの苦々しい文章は重大で過酷な人生経験についてのみならず、厳しい自己分析に熟練する…

レーチカ
4日前
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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉕

 すべての人に官位が定められた世の中にいる十等官である《詩人》、暮らしに不自由なく豪勢に…

レーチカ
2週間前

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉔

 この時期に詩人が作った政治的な抒情詩は、デカブリストのサークルにおける彼の特別な立場を…

レーチカ
2か月前

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉓

 特筆すべきは、オルロフの家でプーシキンが永久平和について説いていたまさにこの日々に、彼…

レーチカ
2か月前
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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉒

オルロフの妻、エカテリーナ・ニコラエヴナは1821年11月23日、弟А.Н.ラエーフスキイに書いて…

レーチカ
3か月前
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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉑

オルロフは、デカブリストから成るロシア騎士団 ― 決断力ある行動戦術を目標とした組織の参…

レーチカ
4か月前
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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑳

まさにこれらの出来事が、おそらく、ぺステリがキシニョフにやって来た理由であった。プーシキンはこの時ぺステリと、《形而上学的、政治的、道徳的、等々の会話》をした。《彼は、私が知っている最も独創的な知性ある人々のうちの一人だ》(XII,303)、 ― 詩人はこのようにキシニョフでの日記に書き留めた。ぺステリとともに彼は、おそらく、ギリシア人の蜂起の指導者たちとの交渉に参加することを引き受けた。何年も経った1833年に、プーシキンはぺステリの外交活動の非常に興味深い詳細を日記に書き

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑲

 プーシキンがキシニョフでおかれた状況は、何よりもまず活動状況がペテルブルクとは違ってい…

レーチカ
4か月前
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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑱

しかしながら極めて巨額の売上金からプーシキンはほとんどなにも受け取れなかった。過分な分け…

レーチカ
5か月前
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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑰

 しかし詩人の文学との関係はまた、ロマン主義の理想と要求とは強烈に対象をなしている、もう…

レーチカ
5か月前
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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑯

 しかしさらに多くの疑問がのちに生じている:プーシキンはこの女性の一つの思いを全読書界の…

レーチカ
5か月前
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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑮

1821年から1823年におけるプーシキンは、このテーマに対して皮肉な態度を取ることなど毛頭なか…

レーチカ
6か月前
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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑭

 プーシキンはキシニョフに疲れた。オルロフとВ.Ф.ラエーフスキイのサークルの崩壊の後、キ…

レーチカ
7か月前
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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑬

 追放された脱走者という人物像は別の心理的資質と関連していた:ここでは《早すぎる魂の老い》ではなく、反対に ― 闘いに対するエネルギーと覚悟が求められていた。それに応じて作者の個性のタイプも変化した。    容赦なきスラブ人、私は涙を流さなかった (II,1,229);     いつも私は同じだ ― 以前もこんな風だった;     無学者には挨拶して歩かない、     オルロフと論争する、めったに飲まない、     オクタヴィウスに ― 盲目的に期待して ―