プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉑
オルロフは、デカブリストから成るロシア騎士団 ― 決断力ある行動戦術を目標とした組織の参加者であった。本来、彼は遠く離れた国境ではなく、モスクワ近くの師団を与えられることを期待していた。《もし私が師団を得られるなら、ニージニィ・ノヴゴロドだろうとヤロスラヴリだろうと、どんな違いがあるだろうか。私は水を得た魚のようなものだ》。オルロフはこれらの都市にはどこでも拠り所となる基地をもっていたので、その時期に国内の軍隊をほとんど持っていないモスクワへ、十分現実的な行軍プランを立てることができた。彼のもとに、同志であるМ.А.ドミトリエフ・マモーノフ伯がいたことは偶然ではない。彼は、その当時、モスクワ近郊の自分の広大な領地に、大砲が備えられた本物の要塞を建設した。その要塞は、この作戦を実行する際に絶好の拠点となり得た、また伝えられるところによると、ミーニンとポジャールスキイに手渡された旗と、皇子ドミートリイの血に染まったルバーシュカが入念に保管されていた。二つの聖遺物はともに意義に満ちていた:第一に、オルロフとマモーノフの行軍を歴史的栄光で神聖化することができた、第二に ― リューリク一族の阻止と、全ロシアの帝位に対するロマノフ家の権利の卑小さの一目瞭然の証拠となり得た。
しかしながら、宮廷ではすでにオルロフを任命しなかった:彼は幾度となく師団指揮官の任命についての請願を断られ、そして結局のところ、遠い国境のはずれにある旅団を与えられた。オルロフは最初は意気阻喪させられたのだが、すぐにギリシア人の蜂起とロシア人を結びつける大胆不敵なプランをまとめた。С.С.ランダは歴史家たちの視野に入らなかった、イスピランティに近いギリシア人歴史家フィリモンの極めて興味深い資料を引用し、その資料によると、イスピランティとオルロフの話し合いにおいて、もしオルロフがギリシアの事件に独断で介入することがアレクサンドル一世の怒りを呼び、彼がペテルブルクで《法の保護なしに通告される》ならば、つまり、もしオルロフの介入がロシアにおいて市民戦争の始まりを扇動するということになったら、オルロフは《ロシア人たちと共に(つまり自分の師団と共に ― ロトマン註)独立した長官として公爵の地位に昇進する》、そしてまず手始めに、ワラキア地方とトルコ領モルダヴィアにペテルブルク政府との革命戦争の始まりに備えた基地を得る、ということがあらかじめ見込まれていた。その時彼は、無論、ヴィトゲンシュタインの軍隊の陰謀に貫かれた他の師団の支援を期待し、またある程度は、キセリョフ、エルモーロフ、ラエーフスキイ父といった軍事活動家からの支援を期待していた。キシニョフに到着すると、オルロフは即座に自分の師団に戦闘行動に出る準備を始めた。彼は自分の周りに将校たち ― 秘密結社のメンバーたちを結束させ、アラクチェーエフ体制支持者たちを追跡して遠ざけ、精力的に兵士たちの個人的な愛着心と愛情を獲得した¹
¹参考:バザーノフВ.Г. ウラジーミル・フェドセーエヴィチ・ラエーフスキイ. モスクワ‐レニングラード.,1949,p.27-88.
オルロフは決して空想家でも夢想家でもなく、1821年には福祉同盟のモスクワ大会では、政府が陰謀の手がかりをつかんだという通知に対する回答として、即時の革命的行動のプランを提案した。
プーシキンがやって来たときのキシニョフは、このような状況にあった。オルロフに最も近い側近たちは ― В.Ф.ラエーフスキイ少佐、オルロフの副官К.А.アホートニコフ、第16師団の旅団指揮官П.С.プーシン少将 ― みな福祉同盟のメンバーであった。彼らはまさに、キシニョフで、プーシキンの政治的態度に最も影響を与えた人物たちのグループだった。プーシキンはオルロフの家で気さくに迎えられた。彼は彼の家での晩餐会のいつもの客であり、この家で沸き立つ絶え間ない政治論争において、同じく主人のいつもの論敵であった。彼はここで、官位や年齢に差がありながらも、平等に受け入れられた。
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